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2020年の高校野球を回顧する(8) イチロー氏、智弁和歌山を指導。そこで……

楊順行スポーツライター
(写真:岡沢克郎/アフロ)

 12月2日から3日間、日米通算で4367安打を記録し、現在はマリナーズの会長付特別補佐兼インストラクターを務めるイチロー氏が、強豪・智弁和歌山を指導した。

 この縁は2018年秋、イチロー氏が智弁和歌山の試合を見たのが始まり。息がぴったりの応援に感銘を受け、19年12月にはイチロー氏が友人たちと結成した草野球チーム「KOBE CHIBEN」が同中・高校の教職員チームと対戦した。さらに氏は昨年、プロ野球経験者が学生を指導するための「学生野球資格回復制度」の研修を受講。20年2月には、日本学生野球協会による審査委員会で、資格回復が認められていた。学生を指導するには本来、プロ球団を退団することが必要。だが、氏の功績の大きさ、またアマ選手の獲得に携わる立場ではないことによる特例的措置だ。

 11月26日、日本新聞協会の記念講演で氏は「(高校野球の指導している姿を)見られると思います」と発言し、高校生の指導に意欲を見せていた。それが智弁和歌山だったわけで、「うちの生徒はもちろん、スタッフ、僕自身にとっても夢のような時間だった。動作、言葉、どれを取っても、心に刻まないといけない」とは、元阪神でプロを経験した智弁和歌山・中谷仁監督である。

1991年センバツでの鈴木一朗
1991年センバツでの鈴木一朗"投手"写真:岡沢克郎/アフロ

正しくは「学生野球構成員資格」

 そこで、そもそも……「学生野球資格回復」とはなんなのか。プロ野球経験者は、なぜ資格を回復しないとアマチュア選手を教えられないのか。学生野球憲章第12条には、こうある。

「プロ野球選手、プロ野球関係者、元プロ野球選手および元プロ野球関係者は、学生野球資格を持たない」

 ここでいう「学生野球資格」とは、なんとなく日本語としてしっくりこないが、「学生野球構成員資格」のこと。この条文以前に「部員、クラブチーム参加者、指導者、審判員または学生野球団体の役員となるための資格をいう」という説明がある。ではなぜ、こんな制度ができたのか。条文に従うなら、プロ野球経験者は、高校球児の息子にむやみに声もかけられないという、現実離れした事態になってしまうではないか。

 実は従来、プロ野球経験者であろうが、退団後1年間を経るなどすれば、指導者になることに制限はなかった。たとえば東急に1年だけ在籍した蔦文也が、1952年から池田(徳島)の監督になったように、だ。だが、まずは61年4月。10月31日までは社会人選手のスカウト禁止という協定を破り、中日が日本生命の柳川福三外野手と契約し、入団を発表する。社会人野球協会は、この協定破りに態度を硬化させ、プロ側との関係断絶を発表した。いわゆる、柳川事件だ。

 さらに、夏。高田(大分)に、門岡信行という好投手がいた。1年秋からエースとして九州大会に出場し、ベスト4止まりだったものの、当時からプロ注目の選手だった。その門岡が、夏の甲子園に出場。初戦で高知商に敗れると、翌日に中日への入団の意思を固め、帰郷の途上、別府港で入団を表明してしまう。球団側も、直ちにコミッショナー事務局に入団の書類を提出した。当時の高野連の規定では、高校生は、退部しなければプロ球団と交渉できない。ところが、甲子園の帰途で表明するという周到さは、事実上は現役の野球部員だった間に交渉していたことになる。さらに、発表が大会期間中というのも心証を大いに悪くし、高野連は高田を1年間の対外試合禁止処分にした。

 この門岡事件を受けた高野連は翌62年春、プロ野球関係者との接触を一切禁止し、またプロ野球関係者の高校球界への復帰も全面的に禁じることになる。日本球界で長きにわたってプロアマの確執が続いたのは、ここから。プロ野球経験者がアマチュア野球の監督となろうとするにも、かなり厳しい条件が設定されるのだ。

新制度下の元プロは00年までわずか1例

 元プロ野球経験者が、高校野球の指導者として復帰可能になったのは84年だが、

・高野連加盟の同一高校で最低10年以上教職員として教鞭をとる

・日本学生野球協会主催の審査によって、高校野球指導者としての認定を受ける

 必要があった。そもそも教員免許が必要だし、かりに30歳から教壇に立ったとしても、10年たって監督になれるのは40歳だから、ハードルはかなり高い。現に、この規定のもとで元プロ監督が甲子園に出場するのは91年春、瀬戸内(広島)を率いた後原富(元東映)まで待たなくてはならない。だがその後、求められる教師経験年数が94年には5年、97年には2年と緩和されると、徐々に元プロの指導者も増えていく。08年夏には常葉菊川(現常葉大菊川・静岡)の部長として佐野心(元中日)が、12年センバツには早鞆(山口)の監督として大越基(元ダイエー)が甲子園に出場した。

 さらに13年には、学生野球協会と日本野球機構(NPB)が実施する合計3日間の学生野球資格回復研修会を修了し、学生野球協会の認定を得れば、資格回復が可能となった。これにより、高野連に指導者登録している元プロ野球関係者はすでに350人超。中止になった20年センバツも含め、15年以降は、6年続けて春夏どちらかの甲子園に元プロの監督が登場している。20年夏の秋田独自大会で優勝した明桜でも、元ヤクルトの尾花高夫が総監督兼投手コーチを務めていた。

 もっとも、いまはまだこんなふうに話題になる元プロ監督だが、近い将来には、さほど珍しくなくなるかもしれない。もしイチロー氏が、母校・愛工大名電の監督をするとでもなれば、話は別ですけど。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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