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さあ、ドラフト。とっておきを探せ! その8 川瀬航作[日本製鉄広畑]

楊順行スポーツライター
社会人の都市対抗野球大会は、東京ドームで11月22日開幕(写真:アフロ)

「結果を残せず、評価をだいぶ落としてしまった。この予選はマイナスでしかありません」

 というと、日本製鉄広畑の川瀬航作はがっくりと肩を落とした。都市対抗近畿地区2次予選、第4代表決定トーナメントの4回戦。日本生命戦に先発した川瀬だが、4回途中3失点で降板し、チームも1対3の敗退で本戦出場を逃した。第1代表決定トーナメント・カナフレックスとの2回戦でも、やはり川瀬が先発して敗れている。この黒星が代表への道をいっそう険しくし、日本生命との一戦は、どちらも負ければ終わりのサバイバルだった。ということは川瀬にとって、日生戦がドラフト会議前の最後の公式戦だったわけだ。そこでの、敗退。

「自分のいいところを評価してもらって、(ドラフト会議で)指名していただいたらうれしいですけど……」というのはホンネだろう。

「投手をやる気はなかった」異色のサイドハンド

 だが、動画を検索してみてください。おもしろい存在なのである。プレートの一塁側ぎりぎりを、しかもつま先で踏み、三塁方向にインステップして上体を折る。そのプロセスからアンダーハンドかと思えば、出てくる腕の位置は横。本人、

「上とか横とか呼び方は違っても、上体に対して腕の出どころは一緒だと思っているんで。違うのは、上体の角度だけ」とこだわるが、あえていうならサイドハンドか。ともかくも、あまり見ないフォームから最速148キロのまっすぐ、また横手からは珍しいスプリットを操る変則ぶりは貴重だ。

 もともと、投手をやる気はなかった。なにしろ、2番手だった中学時代は最速が105キロそこそこと「へなちょこでした」。そのため、内野手志望。だが、藤堂将行監督(当時)に誘われて米子松蔭高に進むと、「ピッチャーとして誘ったんだから、ピッチャーをやれ」。最初は断った。すると藤堂監督は一計を案じ、投手志望者以外も新入生全員に投球練習をさせるという。公平に適性を見る名目だとしても、他の部員が2、3分で終わるところ、川瀬だけは10分以上。魂胆は見え見えで、根負けした川瀬は、「じゃあ、やります」。そのときはふつうのフォームだったが、藤堂監督の「下から投げてみろ」の指示に従うと、そこからほどない6月下旬のことだ。県内の私学大会で、倉吉北高の上級生打線を牛耳り、すぐにベンチ入りに抜擢されるのだ。川瀬はいう。

「そのころは阪神の青柳(晃洋)さんのようなアンダーハンドでしたが、球速を求めるうちに腕の位置も上がり、(京都学園)大学1年冬にいまの投げ方に落ち着きました。もし、自分の希望どおり内野をやったら、きっとナミの選手止まり。ピッチャーをやっていなければ、プロどころか、大学も社会人もなかったと思います。大きな転機で、藤堂監督には感謝ですね」

大学でイッキに開花

 高校時代の甲子園出場はないが、大学(現京都先端科学大)3年春には6勝、4年春にも5勝と、無敗でMVP。ことに3年春は3完封、防御率0.98と圧巻だった。社会人入りした昨2019年は、ルーキーながら、NTT西日本を完封するなど、都市対抗近畿2次予選で3勝。東京ドーム本番も初戦の先発を任されたから、実質エースだ。JFE西日本・河野竜生[現日本ハム]と投げ合ったこの試合、5回途中で降板しており、「相手が注目されているので、圧をかけよう、見ている人をアッといわせようと力が入りました(笑)」。今季の予選といい、意識しすぎるとどうやら、あまりいいことはないようだ。

 コロナ禍のシーズン。自粛期間に入るまでは思ったほど調子が上がらず、それどころか投げれば投げるほど感覚が狂っていった。そのため自主練習期間は「いっぺん忘れてリセットしよう」と、ほぼノースロー。大学時代は、調子が上がらないと投げ込んで復調を図ったが、それとは逆を行ったわけだ。するとオープン戦再開後、「4月よりは球が戻っていました。いまは8、9割の状態」と、都市対抗予選前は明るい表情だったが……。

 大学で同リーグだった大江克哉(NTT西日本)は、いまも同じ近畿のライバルで、NTT西日本は近畿第1代表として都市対抗出場が決まっている。

「あっちは確実に上位で指名されるでしょう。自分も指名されればベストなんですが……」

 変則右腕に吉報は届くか。

かわせ・こうさく/日本製鉄広畑/投手/右投右打/1997年3月2日生まれ/大阪府出身/182cm87kg/米子樟蔭高→京都学園大

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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