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江川卓がいたから誕生した若大将・原辰徳 その1

楊順行スポーツライター
1976年夏の甲子園。こりゃあ、人気が出るはずだ(写真:岡沢克郎/アフロ)

 もう、話すことないですよ……当時も巨人を率いていた原辰徳監督に、高校時代の話を聞いたのは2008年の夏前のことだ。

 確かに、3年間注目され続けた高校時代を扱った記事の量は膨大だし、ちょっと検索しただけでもプリントするのがイヤになるほど、さまざまな逸話が引っかかってくる。原辰徳の高校3年間というのは、すっかり知り尽くされているといっていい。それでも、だ。やはり本人の口からなにかを聞きたい。

 プロ野球選手というのは、高校時代の思い出を話し始めると、ほぼ例外なく興が乗ってくるが、高校時代から騒がれ続けた原くらいになると、いいかげん流してもおかしくない。それでも、高校時代のチームメイトで、当時巨人の広報課長として同席していた津末英明(元巨人ほか)に「な、そうだったよな」などと確認しながら、さも初めて明かすかのように楽しそうに話してくれるのは、さすがさわやかな若大将だ。そして、こちらとしては初めて耳にする事実。

「(東海大)相模への進学を決めたのは、江川さんに会ったからなんです」

 説明がいる。1973年夏。当時神奈川・相模原市立上鶴間中3年だった原少年は、父に連れられて甲子園を訪れた。そのころ、次の試合の選手たちは、前の試合の途中から、インタビュー通路で控えていた。関係者以外は立ち入り禁止だが、原少年は父の"顔"もあり、そのエリアに入ることができた。そして……目の前に、"怪物"と呼ばれた男がいた。栃木大会5試合のうち3試合でノーヒット・ノーランを達成し、全試合でも被安打わずか2の無失点、練習試合も含めれば140回連続無失点で甲子園に乗り込んできた作新学院(栃木)・江川卓(元巨人)である。

江川がいたから相模・原辰徳があった?

 父の顔、というのはこういうことだ。父・貢は、社会人の東洋高圧大牟田でプレーし、引退した58年、会社に在籍しながら福岡・三池工の監督に就任すると、65年夏には、2年生左腕上田卓三(元南海)を擁して全国制覇を果たした。初出場優勝の偉業は、石炭産業の斜陽化に沈む地元・大牟田に大いなる活気をもたらし、優勝パレードには、そのころ15万人といわれた市の人口を軽く上回る20万人が集まったという。当時小学校1年だった辰徳は、甲子園に応援に行ったことも、パレードの熱気も、むろん野球が人を感動させることも、幼心にしっかり保存した。いかにも都会的でスマートな2枚目だから、首都圏出身のイメージがあるけれど、実は辰徳は福岡県生まれというわけだ。そして73年夏、関係者エリアに入ることができたのは、父のそういうキャリアによる。

 で、怪物・江川を前にした原少年は、頬を紅潮させ、挨拶を交わすことになるわけだ。

「江川さんは、そのへんの野球少年としか思わなかったでしょうが、あそこで話をしたのが鮮烈な印象でした。それまでは迷っていた進学先も、甲子園に出るためには相模しかない、と決めましたね」

 三池工で全国制覇を果たした父は、東海大学の創立者・松前重義に「東海大相模を強くしてくれ」と誘われることに。優勝へのプロセスで、傘下の東海大一(現東海大静岡翔洋)に11対1と大勝した手腕を買われたのだ。貢は「男なら、都(みやこ)で勝負したい」とこれに応じて九州を飛び出し、63年創立の新興校・東海大相模に。そして就任から4年目の69年には早くも甲子園に初出場し、翌70年夏にはまたも日本一に。「都での勝負」で、きっちりと結果を出したわけだ。

 となると中学時代、エースで四番として活躍した辰徳としては、父のもとで野球をやりたくなるのは当然だ。だが父は、「考え直せ」と取り合わない。自分の性格から、指導に親子というバイアスをかけないよう、必要以上につらく当たることが目に見えていたからだ。辰徳も、そういう気持ちがわかったから、進学先についてためらっていた。夏の甲子園を訪れたのは、ちょうどそんなとき。父は、辰徳が東海大相模以外のお気に入りを見つけてくれたら…………という思惑だったかもしれないが、江川のオーラを浴びた天秤は逆に傾いた。自分も甲子園でプレーしたい。それには父のもと、東海大相模への進学しか考えられない。

 心を決めて地元に帰り、ある日町を歩いていると、偶然村中秀人(現東海大甲府監督)とすれ違った。大野南中の左ピッチャーで、辰徳の上鶴間中は県大会の初戦で当たり、コールド負けしている。辰徳は、のちに女性に大人気となるさわやかな笑顔で、屈託なく村中に話しかけた。村中君、相模でいっしょに野球をやろうよ。僕はサードをやって、村中君がピッチャーをやって、いっしょに甲子園を目ざそうよ……その決意を、父にも告げた。

「“そうか、わかった。ただ、親子でやるというのは、なま易しくないぞ”、と。ほかの選手と五分の力じゃ使わない。6対4でも補欠、7対3の力の差があって、初めてレギュラーにできる、というんですね。それと愛のムチは、ほかの選手が一発のところを3発。実際には5、6発やられて、“3発じゃなかったの?”と、心中で文句をいっていましたけどね(笑)」

 1970年代というのは、そういう時代である。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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