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[高校野球]あの夏の記憶/なぜ変化球を投げたのか……Vに迫った仙台育英・大越基

楊順行スポーツライター
1989年夏を含め、甲子園の決勝に3回進んでいる仙台育英。左が大越基(写真:岡沢克郎/アフロ)

 なんで変化球を投げたんだろうなぁ……いま、山口・早鞆高を率いる大越基(元ダイエー)は、あの試合のビデオを見るたびに自分でも疑問に思う。

 1989年夏の甲子園、決勝。仙台育英(宮城)と帝京(東東京)の一戦は、0対0のまま延長に入っていた。東北勢にとって、第1回の全国中等学校優勝野球大会の秋田中、69年夏の三沢(青森)、71年の磐城(福島)に続いて、全国制覇への挑戦は4度目。だが大旗は、まだ白河の関を越えないでいる。この年は、帝京とがっぷり四つで延長に入ったが、仙台育英は有利といわれる後攻。東北勢初優勝へ、大きなチャンスだ。

 10回表。大越は帝京の先頭打者、九番・井村清治に対して、キャッチャーのサインどおり変化球から入った。帝京・前田三夫監督は、「井村はまったく直球に合っていなかったから、変化球狙いの指示」といい、大越自身もまっすぐさえ投げておけば大丈夫、という感触があったのに、なぜか変化球。それが二遊間を抜けるヒットとなり、四球に送りバントで1死二、三塁と、育英は大ピンチを迎えることになる。

 初回。4連投となる大越は、なかなかストライクが入らなかった。連投をさせない育英にあって、前日準決勝の3連投さえ初めての経験だったのだ。体の疲れは尋常じゃない。先頭の蒲生弘一にいきなりスリーボールだ。ダメかな……。だが、4球目。ストライクのコールが響くと、4万人の観衆から大歓声が上がった。ああ、甲子園全体が、こんなにオレを応援してくれているんだ。そう思うと、生き返った。

「それと自分、意外と冷静だったんですよ。あの試合は周囲がよく見えていた。前田監督が、三塁側ベンチに立っているでしょう。で、マウンドでボールが先行したとき、チラッと見ると"待て"と"打て"のサインがわかったんですよ。待てだったら、安心してど真ん中に放ってカウントを整えていましたね」

「待て」と「打て」のサインがわかった

 かくして、持ち前の力のあるストレートが走り、大越は8回まで4安打と好投を続けた。大越には、なんとしても勝ちたい思いが強い。

「高校2年になる春休みでした。遠征の合間、甲子園の見学に行ったんです。センバツを見ながら、自分の後ろに座った竹田(利秋監督・当時)先生がいうんですよ。“大越、オレも一度でいいから、甲子園の決勝でさい配をしてみたいよ”。それが強烈に記憶にあったんですね」

 尽誠学園(香川)との準決勝では延長10回、自身の勝ち越し打で決着をつけ、男泣きしたのはそのためだ。そして育英は……9回裏、チャンスを迎える。2死ながら、一番の大山豊和が三塁打を放ち、打席には茂木武が入った。一打サヨナラ、そして優勝のチャンスだ。ただ、と大越はいう。

「前田監督はあの場面、どうにでもなれ、もし打たれるようなら、オレは一生優勝とは縁がない……と居直ったらしいですが、僕はむしろ、あのチャンスがあったせいで勝てなかったと思いますね。体はきついし、もう投げたくない……というのが正直なところでした。すると2死とはいえ、どうしても、サヨナラがちらつくじゃないですか。ところが、二番の茂木が凡退。ネクストで見ていた僕はガックリですよ。ああ、また投げなきゃいけないのか……その気持ちを切り替えられないまま、延長のマウンドに向かってしまったんですね」

 だからこそ10回表、変化球狙いの先頭打者・井村に対して、なにげなく変化球から入ってしまったのだ。そして、1死二、三塁で打席には鹿野浩司(元ロッテ)。大越はこのピンチに、直球を続けて2ストライクと追い込んだ。大越の感覚では、鹿野は直球にも変化球にもタイミングが合っている。どうせ打たれるなら、直球でいこう。一球ファウルのあと、4球目だ。やや外の甘いストレートを、鹿野が中前にはじき返す。優勝を決める、2点タイムリーだった。大越は当時、「やりきった」という満足感でいっぱいだったが、年数がたってみると、あらためて優勝と準優勝では大違いだと感じていた。

 後年雑誌の企画で、前田監督と、すでに早鞆を率いていた大越に対談してもらったことがある。そのときの、前田監督。

「鹿野の決勝打のとき、実は最初は変化球狙いのサイン。だけど直球が続いて、それを2球見逃した鹿野が、恨めしそうにベンチを見るものだから、"悪い悪い"と謝ってね(笑)。もちろん、変化球狙いは取り消しのサインを出したよ」

 大越のリアクションがいい。

「なんだ、前田さんが鹿野に謝った場面を見ていればよかったですね。そうすれば変化球を投げて、打ち取れたかもしれない……」

 仙台育英はこのあとも、春夏1回ずつ決勝に進むが、いずれも敗れている。21世紀に入ってから、育英を含めのべ8校が甲子園の決勝に進んだ東北勢だが、いまだに優勝旗は白河の関を越えていない。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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