[高校野球]あの夏の記憶/左足にズック靴、右足にはスパイク 若松勉(北海)その1

選手権出場38回と最多を誇る古豪・北海(写真:岡沢克郎/アフロ)

 左足にズック靴、右足にはスパイク。思わず笑ってしまった。

 若松勉さんをご存じだろう。ヤクルト一筋、日本人選手としては最高のプロ野球生涯打率.319(4000打数以上、現役の青木宣親を除く)を残し、2001年には監督として日本一にも導いた。その、日本球界屈指のヒットマンが、だ。1965年、北海高校で夏の子甲子園に出場したときは、背番号14だったというのだ。なぜ? 話を聞く。

「実はその年、春先のスライディング練習で左足首を骨折したんです。1カ月ほど入院しましたから春の大会は棒に振って、飛沢栄三部長と宮田昭弘監督が夏に備えて空けておいてくれたのが、背番号14でした。その夏にはなんとか間に合ったんですが、北海道大会では右足にスパイクを履き、左足は足首に負担がかからないように、ズック靴(笑)。守備位置も、本来のセンターではなく一塁でした。そんな状態でも、美唄工との南北海道の決勝では、三塁ランナーの僕にホームスチールのサインが出たんです(笑)。成功しましたけどね」

 もともと、高校時代はついてなかったと若松さんはいう。セカンドのレギュラーだった2年夏(64年)も、北海は甲子園出場を決めたが、その後の練習中に胸が苦しくなって医者に行くと「気管支炎。野球なんてとんでもない」。静養するしかないのが悔しくて、野球を辞めたいとこぼすと、「父親から、デレッキで頭を叩かれました(笑)」。ちなみに北海道でいうデレッキとは、ストーブの火掻き棒のことだそうだ。もっとも、野球を始めたのはその父の影響だ。社会人野球の名門・函館オーシャンでプレーした父は、ノルディックスキー(距離)でも国体に出た腕前で、若松さんも中学までは野球とスキーの二刀流だった。

「留萌中に入学したとき、野球部には入部希望者が多かったんです。それで顧問の先生が、新入生を機械的に身長順に並べて、"入部できるのはここからここまで"。私は当時も身長が低かったものですから、あやうく入部できないところでした。だけど知り合いの上級生が"こっちに並べ"とこっそり割り込ませてくれまして、なんとか入部できたんです」

高校では背番号14だった屈指のヒットマン

 その"裏口"で入部した野球部では、1年からセカンドのレギュラーになったが、もし上級生の機転がなければ、日本人最高打率は若松さん以外のだれかだったかもしれない。ノルディック選手としての若松さんも、超有望だった。中学1年のときこそ「途中でスキー板が外れて」負けたが、2、3年と留萌市の競技会で優勝。野球かスキーか迷っているときに、北海高校の関係者から誘いを受け、天秤は野球に傾いた。しかし、ときは昭和30年代。「小さいころから"甲子園、甲子園"とあこがれて入学した、というわけじゃない」にしても、名門・北海の野球部とくれば、練習の厳しさはハンパじゃなかった。その当時の北海といえば、若松さんが入学した63年にはセンバツで準優勝しているから、とてつもなくレベルが高い。しかも人気校だけに、同期の新入部員が150人ほどもいた。グラウンドには外野フェンスがなかったから、1年生の人垣がフェンスがわり。若松さんはいう。

「1年生の役割は、もっぱら球拾いと声出しで、練習が終わればウサギ跳びやランニング。たとえば、150人がヨ~イドンで100メートルを走り、上位に入った1、2人だけが抜ける。これを延々繰り返しますから、遅いヤツは50本走ってもまだ終わりません。多すぎる新入部員をやめさせるための練習ですよね。ほかにも、昼休み中にグラウンド整備をして石ころが1個でも落ちていようものなら、連帯責任でガツンとやられますから、1日で部員が半減しました。

 だけど、つらくて辞めたいと思ったことはないですね。田舎から札幌に出てきて、イヤだから辞める、というわけにはいかないですから。スキーの距離競技では、登りで差をつけられるとなかなか追いつけないので、練習から山坂をひたすら登り、下りになったらやっと息が抜けるんですよ。呼吸は苦しいし鼻水は凍るし、とにかくきつい。そういうことをやっていましたから、精神的な強さは多少はあったかな、苦しい練習も自分に合っていたのかな、と思います」

 中学の野球部では身長制限にひっかかりそうで、高校ではスキーを選択しても不思議ではなかった。つまりちょっと間違えば、野球殿堂入りの大打者も、もしかしたら72年の札幌五輪あたりでは、ノルディックの選手として活躍していたかもしれない。

「チャンスは、1年秋の新チームかなぁ。1年の夏は、決勝で函館工に負けて甲子園に出られず、新チームになるわけですが、練習のあと飛沢先生に"トスバッティングを打ってみなさい"といわれて、ネット裏で打ったんです」

 飛沢先生とは、20年の夏に北海中が初めて全国大会に出場したときのメンバーで、戦前から長く北海の部長・監督を務めた飛沢栄三氏である。(続く)