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コロナに勝った! 梨田昌孝さん。現役最後のヒットを打った「川崎劇場」とは?

楊順行スポーツライター
野球日本代表コーチ時代、2013年の梨田さん(写真:アフロスポーツ)

『テレビじゃ見れない川崎劇場』

 のち、あまりにお客さんが来ないことを自虐したテレビCMがおもしろかった、川崎球場。ただ、急きょテレビ中継が決まるだけじゃなく、プロ野球ファンが1球1球の行方から目を離せない1日があったことを覚えていますか。

 1988年10月19日、近鉄がロッテに連勝すれば大逆転優勝、というダブルヘッダーである。近鉄が優勝するには、連勝のみ。引き分けさえ許されない。第1試合は、近鉄が9回に勝ち越して勝利。だが第2試合は延長のすえ引き分けて、近鉄は結局、優勝した西武にほんのわずか届かなかった。いわゆるジッテンイチキュウだ。

 その第1試合、引き分け寸前の9回に代打で出て、勝ち越し打を放ったのが梨田昌孝さんだ。この年限りで引退を決めていたから、現役最後の打席だった。梨田さんが入院中には、激励の意味も込めてこんな原稿を書いたのでhttps://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2020/04/24/___split_77/、こちらもご覧くださればありがたい。

 話は違うが、あの当時の球場名というのは潔かったですね。ネーミングライツという発想はなく、たとえば神宮、横浜、ナゴヤ、大阪、西宮、広島市民、平和台……と、ほとんど地名だけで事足りていた。いま、ときどき名前が変わる球場があるけれど、こちらには覚える気もありません。千葉マリンは千葉マリン、福岡ドームは福岡ドームで間に合ってます。

哀愁の川崎球場

 さて話題は、川崎球場だ。ワタクシゴトだが、10・19の余韻もさめやらぬ88年10月20日に足を運んだのが印象深い。ダイエー(現ソフトバンク)に買収された南海が、「南海」という名前で行う首都圏最後の試合だった。

 取材で足を運んだことはあったが、川崎球場の観客として野球を見るのは初めて。あらためてスタンドに陣取ると、なんとも哀愁があった。老朽化で塗装はあちこちはげかけ、椅子はところどころが欠けている。むろん、前日札止めだった客席はまばらもいいところで、ビールの売り子もいないから、いったん球場から出て、外の売店で買う。それもチケットのチェックはなく、フリーパス。さすが、アベックがいちゃつくのに持ってこいと茶化された球場だ。

 日本鋼管やいすゞ自動車などの大企業がひしめき、都市対抗野球熱の高いこの町に、新スタジアム建設の気運が高まったのは昭和20年代中ごろという。1951年に着工し、翌年完成。当時は株式会社川崎スタジアムで、出資者は川崎市のほか日本鋼管、味の素、東芝、コロムビア……など、地元の有力企業がずらり。社会人野球が盛んな土地、そして時代でもあり、プロ野球よりもむしろアマチュア野球の聖地を期待されていたようだ。

 52年4月3日、記念すべき開幕試合は東映(現日本ハム)と大映(ロッテの遠いルーツ)。東映が5対3で勝ったが、敗戦投手は球史に残るスタルヒンだ。54年には、新たに発足した高橋ユニオンズが本拠地とし、プロ野球の主球場になると、6月にはナイター設備が完成した。意外なことに甲子園よりも早く、プロ野球のフランチャイズとしては6番目、しかも後楽園より明るいと選手には好評だったとか。晩年は老朽化が著しかったが、当初は最先端だったのだ。

村田兆治、有藤通世、リー、落合……

 55年には、下関がフランチャイズだった大洋(現横浜)が移ってきて、トンボと名前を変えた高橋とともに、セ・パ両リーグの本拠地となった。その後、「10・19」じゃないけれど、なぜかここ川崎ではよくなにかが起きる。55年には、川崎の第1号敗戦投手だったスタルヒンが史上初の通算300勝。57年、大洋の青田昇がこれも史上初の通算250本塁打。外野スタンドが完成した60年には、島田源太郎(大洋)が史上6人目の完全試合を達成し、おまけに三原脩監督のもと、前年の最下位から大洋が初優勝……。62年7月1日、王貞治が一本足打法での第1号を放ったのもそうだ。大洋が横浜に移り、かわりにロッテがここを本拠にすると、80年には張本勲が史上初の3000本安打、肘の手術から復活した村田兆治が1073日ぶりの勝利を挙げたのもここ。落合博満はよく、狭いライト側にホームランを打っていたっけ。

 ただ、築30年になろうとする球場には、あちこちにボロが出始めていた。雨が多く降ると、記者席に浸水する。「足もとをネズミが駆け抜けていったわよ」と教えてくれたのは、長くロッテのウグイス嬢を務め、のちライターに転身した鉄谷多美子さんだ。SBOの操作盤は、万一故障するとすでに取り換える部品がないため、取り扱い注意。一塁側スタンドを超えたファウルは、ときに選手の車を直撃する。有藤通世は、

「グラブやスパイクを1週間も置いておくと、カビが生える。ロッカーが湿っぽいんだ。バットは、一晩おくだけで20グラムも重くなったよ(笑)」

 ロッテが千葉ロッテとなってフランチャイズを移した92年を最後に、川崎球場はプロ野球の主球場としての役割を終えた。40年で開催された公式戦は2453試合。社会人野球のOBからは、

「ナイターで都市対抗予選なんかやると、すごかった。工場勤務を終えた社員が詰めかけて、下手なプレーをするとビールをぶっかけられたよ。なにしろ、負けると都市対抗に出られないんだけど、相手も事情は同じでね。スタンドは殺気立っていたよね」

 などと、さながらサッカーのフーリガンのような熱い話を聞くこともあった。2000年3月26日、老朽化にともなう川崎球場の閉鎖が決まり、最後に行われた横浜とロッテのオープン戦に詰めかけたファンの数は、「10・19」以来だった。大規模な改修を経て、14年には川崎富士見球技場と改称。現在は、アメリカン・フットボールなどの試合が行われているという。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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