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第90回都市対抗野球・出場チームのちょっといい話2/王子

楊順行スポーツライター
都市対抗野球は90回の記念大会を迎える(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

 6月6日、都市対抗野球東海地区第6代表決定戦。王子は、エース・近藤均が日本製鐵東海REXを8安打1失点に抑え、2年連続17回目の本大会出場を決めた。近藤は5月24日、ジェイプロジェクトとの延長10回を完封し、30日の三菱重工名古屋戦も先発。6月2日、東邦ガスとの第2代表決定戦は3失点で完投しながら敗れたが、中3日のこの日も完投と、まさに大黒柱にふさわしいフル回転だった。稲場勇樹監督は、「春先から安定していて、信頼していた。思った通りの投球をしてくれた」と近藤をたたえる。

 働き方改革ですよ……王子の、春季キャンプ。稲場監督はそう切り出した(ちなみに、取材を段取ってくれたのは新任の川口盛外マネージャー。プロ野球・広島にも在籍したナイスガイです)。

「練習メニューをマイナーチェンジしたんです。たとえば、若手の筋トレを出勤前の早朝にしたり、自主練を課題練習にしたり。チームとしての練習時間を効率的にするためです。確かに昨年は両ドームに出場しましたし、2015年には都市対抗、16年には日本選手権でベスト4と、そこそこの結果は出してくれている。ですが、黒獅子旗獲得のためにはもう1、2ランクアップしなくてはなりません。そのためには、なにかを変えたかったんです」

社会人の3チームでプレー

 経歴は、起伏に富んでいる。駒澤大時代は、内野手として3回の日本一を経験した。だが1995年に入社したたくぎんは、2年目に休部。北海道拓殖銀行そのものも、98年に破綻した。稲場は当時"北海道5強"のひとつに数えられた王子製紙苫小牧に移るが、ここの野球部も00年の都市対抗出場を最後に、王子製紙春日井(現王子)に統合された。当時28歳だった稲場は、統合先で1年だけプレー。以後08年までは「マネージャーとして恩返しの日々」で、04年、愛知県勢としての都市対抗初優勝、08年の準優勝をかげで支えた。以後は社業に専念し、監督として現場に戻ったのは、15年のことだった。当時、こんなふうに語っている。

「あのころといまとでは、意識して自分を変えています。あまり細かいことは話さない。監督という立場は、会社でいえば社長でしょう。社長があれこれ口うるさくいったら、現場はうっとうしいでしょうからね」

 そして興味深かったのは、マネージャー時代の経験から、優勝したときの年間スケジュールが体に保存されているということ。もちろん険しい道にしても、Vロードマップが明確だったわけだ。ただ5年目を迎えた今年は、

「そこも含めて、壊しているところ。優勝した04年をイメージしながらやってきて、ベスト4止まりでしたから。たとえば従来は、5月上旬のベーブルース杯に出られる年でも、2次予選前の強化期間にあてていたんですが、今年は出場します。また監督1、2年目はまず選手を観察していたんですが、3、4年目はそのイメージで選手を見ていた。もう一度、選手一人一人を見直そうと思います」

 四番打者として成長を見せる神鳥猛流や、秦匠太朗、吉岡郁哉といった新人を抜擢しての本大会出場は、選手一人一人をよく見ることで部内競争が活性化した成果といえるだろう。

 3つの社会人チームでプレーしたから、企業スポーツの意義や、会社のありがたみを痛感している。

「同じ紙の会社である、日本製紙のアイスホッケー部が廃部したでしょう。王子の苫小牧にもアイスホッケー部がありますが、人ごとではありません。企業スポーツでチームが存続するためには、野球を引退したとき、会社に戻って人として成長した姿を見せること。選手にはそのことをつねにいっています」

 そして会社にとっては、都市対抗で優勝することこそがなによりの貢献だ。稲場監督の背番号は、現役時代の27をひっくり返した72。7+2=9のカブとゲンがよく、ちなみに04年の優勝を率いた棚橋祐司監督の背番号も63だった。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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