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平成の高校野球10大ニュース その7 2007年/特待生問題の激震とがばい旋風

楊順行スポーツライター
副島浩史(中央)の劇的逆転満塁弾で優勝した2007年夏の佐賀北(写真:岡沢克郎/アフロ)

 そもそも、特待生問題とはなんだったのか。

 2007年3月、プロ野球の西武ライオンズが、スカウト活動の際にアマチュア選手に金銭供与を行っていたことが判明した。金銭を渡したプロ側の違反が厳しく追及されるのはもちろん、受け取ったアマチュア側の違反行為も大きくクローズアップされた。これをきっかけに日本高野連は、かねてから学生野球憲章に違反しかねなかった特待生制度の全国調査に乗り出した。4月20日のことだ。

 この問題は、いわゆる「野球留学」ともかかわってくる。野球留学を「保護者が同居する自宅以外から高校に通学する」ことと定義すれば、中等学校野球の草創期から学業、あるいは野球を主目的として、「保護者と同居せず」学校に通う例はめずらしくなかった。時代が下っても、1970〜80年代のPL学園(大阪)や東海大相模(神奈川)などは、すぐれた人材が全国から集まることで強豪となっていった。いわば、本人の腕試し的な野球留学である。

野球留学とイコールではないけれど

 違った方向での野球留学が目立つようになったのは、90年代以降のことだ。近畿圏や関東圏の中学生が、地元よりもややレベルが劣り、甲子園出場への可能性が高いと思われる地区へ進学するケースである。私学の経営戦略としても、甲子園に出場することは知名度を上げるひとつの近道。受け入れ側の需要と、進学側の供給が一致したことで、都市圏から地方への野球留学が促されたといえる。高野連の調査によると、野球留学の理由として、

・全国大会に出場する難易度が低くなる

・環境や施設の充実、いい指導者の存在

 などがあげられ、07年に行われた高校野球特待生問題有識者会議でも、こうした理由での野球留学は可とされた。問題となる野球留学は、技量を理由に入学金や授業料、寮費などの全部、あるいは一部を学校側が負担する特待生制度をともなうケース。さらに、そのプロセスで介在する仲介者、いわゆるプローカーの存在も目障りだっただろう。当時の学生野球憲章によると「選手又は部員は、いかなる名義によるものであっても、他から選手又は部員であることを理由に支給され又は貸与されるものと認められる学費、生活費その他の金品を受け取ることができない」(のち2010年2月4日に全面改正)。つまり技量の優劣を問わず、特待生の存在自体がNGということになる。

 高野連はそれまで、特待制度について「実施しないよう」に通達は出していたが、事実上野放しで、07年の問題発覚後の調査では、この学生野球憲章に違反する特待制度を採用していた学校が376校、対象になる生徒は7971人もいた。1校平均で約20人ということは、ベンチ入りの全員が特待生、という計算も成り立つ。だが、生活困窮者が学費や寮費の減免がある学校へ特待生として進学する例もあるし、ひとくくりに違反とするには無理がある。また現実には、膨大な数の生徒を「違反だから」と処分するわけにも、転校、退学させるわけにはいかない。そこで、その時点で在学中の特待生に関しては、学校長が経済的救済が必要と認めた選手は違反と見なさない、という救済措置がとられた。例外的に、問題の端緒となった某校が、一時期野球部を解散して活動を自粛したほかは、原則おとがめなしというわけだ。

 12年度からは野球特待生制度を1学年5人以内などと定め、限定的ながら「野球特待生」を公に認めている。15〜17年度の実態調査では、特待制度の採用校は453校、採用人数は1938人。日本高野連によると、採用校の意見では特待生が「他生徒の模範になっている」と肯定的なものがほとんど。この制度は今後も継続するとしており、平たくいえば、望ましくはないがやむをえない、というところか。

特待生とは無縁のがばい旋風

 問題が表面化したこの年夏の甲子園は、ちょっと示唆的だった。開幕試合に登場した佐賀北は福井商に勝つと、2回戦の宇治山田商(三重)とは延長15回引き分け再試合のすえに快勝。準々決勝の帝京(東東京)には延長サヨナラで、準決勝は長崎日大との九州対決に勝って決勝まで進むのだ。そして、広陵(広島)との決勝。4点を追う8回裏、まず押し出しで3点差とした1死満塁から、副島浩史が野村祐輔(現広島)のスライダーを左翼スタンドに叩き込み、これが優勝を決める逆転グランドスラムとなった。

 開幕戦に勝ち、しかも優勝の決勝点が満塁弾と、94年夏の佐賀商の優勝とも重なる全国制覇は"がばい旋風"と呼ばれ、当時流行語になった。公立校の優勝は11年ぶりのこと。それにしても……佐賀北は、県立普通校である。よりによって特待生問題が表面化したこの年、特待生とは無縁のチームが強豪私立を次々と撃破し、優勝したのは、いかにもできすぎだった。ことに敗色濃厚の決勝戦の8回、ストライクと判定されてもいい野村の投球が、ことごとくボールに判定され、それが押し出しに、ひいては逆転グランドスラムにつながったとささやく人は数多い。まるで野放図な特待生採用に釘をさす意図があったようじゃないか……むろん、真相はわからない。ただ、ネット裏で見ていたある重鎮が、微妙な判定に対して、

「審判が(試合を)つくっちゃいかんわ」

 と憤慨したことは事実である。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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