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いまさらながら……2017年夏の甲子園、名采配をプレーバック。(その8・東海大菅生)

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

▼第7日第2試合 2回戦

東海大菅生 010 001 117=11

高 岡 商 010 000 000=1

 まさにエースのピッチングだった。

 東海大菅生(西東京)、松本健吾。2回、味方が先制してくれたあと、2死からの四球をきっかけに高岡商(富山)に同点に追いつかれた。さらに3回は無死二塁と、流れが相手に行きかねないピンチを迎える。だがここで140キロ台の速球と変化球を武器に、相手クリーンアップを三者凡退。とくに三番・島村功記から空振り三振を奪ったSFFが効果的だった。松本は振り返る。

「クリーンアップを打ち取れて、その後は落ち着いて投げられました。相手は長打力もありますし、怖くない、というわけじゃありません。ただ早実の清宮(幸太郎)や日大三の桜井(周斗)という、日本を代表する打者を抑えたという自信はありました」

 3回以後は、すいすいと5安打無失点。試合は中盤から終盤に打線が大量援護し、終わってみれば1失点完投だ。

 スタンドには、4万6000の大観衆。菅生・若林弘泰監督はいう。

「神宮もそうですが、甲子園は高校野球の聖地。いざダグアウトに入ると、神宮よりも1万人以上多い観客に、私がまず圧倒されました。でも選手たちの第一声は、"神宮より暑くないな"。観客の多さに臆することなく、まず気にしたのが暑さです。その冷静さに、私も落ち着きました」

 もともと菅生ナイン、高い注目度には慣れている。早実との西東京の決勝は、過熱する清宮フィーバーで、神宮球場が3万人の大観衆で埋まった。松本たちいまの3年生は、清宮が1年生だった一昨年、早実との決勝戦をスタンドで体感。このときは「完全アウェーの球場の雰囲気に飲まれ」(若林監督)、7回まで5対0とリードしながら、よもやの逆転負けを食らった。同じ轍は踏まない。心に期するものがあった松本は、早実との決勝では清宮をヒット1本に抑え、7安打2失点の完投だ。

エース番号はく奪からの復活

 実はこの松本、西東京大会前には、不調から背番号1をはく奪されている。「持っているモノはいいけど、心が三流」と、若林監督は辛口だった。投手として、プロ野球・中日に6年間在籍した指揮官は、「ピッチャーを教えるのは好きじゃない。すぐ飽きちゃうんです」と笑いながらも、エースの条件をこう列挙した。

「野手がエラーして走者を出しても、後続を打ち取る。追い込んでから打たれない。2死から失点しない。そうやって、チームに信頼されていくんです」

 だが、それまでの松本は「打ち取った打球をエラーすると、崩れる。3ボールになるとフォアボールか、打たれる。細心になることは必要ですが、神経質ではいけない」。モノはいいのに心が三流、と突き放されたのはそのあたりだ。変化の兆しがあったのは、6月中旬。

「2死から走者を出す、追い込んでから打たれるという、ツメの甘さが目立ったんですが、ようやくそれがなくなってきたんです」

 エース番号のはく奪が、松本になんらかの化学変化をもたらしたといえる。強力打線を8回まで3安打無失点に抑えた日大三との準々決勝、大胆に内角を使い、2失点で公式戦初完投勝利の早実との決勝は、成長の証だった。かくして甲子園では、エース番号が松本の背に戻る。背番号1をつけて甲子園で投げるのが夢だった、という松本が発奮しないわけがない。

 青森山田との3回戦の先発は、西東京大会では背番号1をつけた2年生の戸田懐生。うずうずしていた「投げたがり屋」(若林監督)がここを1失点完投すると、三本松(香川)との準々決勝では先発・松本が8回1失点だ。結局菅生は、チーム初のベスト4に進出。投手心理をイヤというほど知る若林監督が、競争心をあおりながら、2人のエースをがうまく操った結果だった。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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