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覚えてますか? 呂比須ワグナー。日本のW杯初出場の原動力だった(その1)

楊順行スポーツライター
1998年のフランスW杯、ジャマイカ戦で日本の初ゴールをアシストした(写真:ロイター/アフロ)

1997年10月11日。加茂周監督がフランスW杯アジア最終予選中に解任され、岡田武史ジャパンの初戦となったウズベキスタン戦だ。0対1と敗色濃厚で、W杯へつながっていた一枚の首の皮すらちぎれそうなロスタイム寸前に、同点ゴールを決めたのが呂比須ワグナーだった。ブラジル国籍だった呂比須が、晴れて日本国籍を獲得したのが9月12日、代表デビューは9月28日の韓国戦だった。

日本は結局、イランとのプレーオフを勝利し、悲願のW杯初出場を果たすのだが、岡野雅行のゴールデンゴールをアシストしたのも呂比須である。もし、帰化が間に合っていなければ。日本にとってのW杯初体験は、あと4年繰り延べになっていたかもしれない。

■いよいよフランスW杯ですね。代表入りを、つまり帰化申請が認められることを長い間心待ちにしていたからこそ、呂比須さんは日の丸への思い入れが強い。

「去年(97年)代表でデビューした韓国戦のとき、グラウンド入りするとスタンドから大きな拍手があって、みんなが僕の名前を大声で呼んでくれるんですね。あれで“よし、責任を果たすんだ、点を取るんだ”という気持ちがすごく強くなりました。応援してくれる人に、勝つことでプレゼントしたい、と。僕たち代表は、日本人1億2000万人の期待を背負っているんです。その分幸せを、そして責任を感じなきゃ……。たとえば僕にとって、家族はかけがえのない存在です。でも代表にいるときは、家族よりも日の丸のほうが大切かもしれない。そのくらいの重みがあるんです」

■そういえば、イランとの第3代表プレーオフの直前にブラジルでお母さんが亡くなりましたが、帰国はしなかった……それが代表の重みですね。その日の丸をつけて、いよいよW杯本番です。

「代表が正式に発表になるまでは、(対戦相手の)アルゼンチンの試合のビデオを見ていても、どこか身が入らなかった。でもメンバーが発表されて、やっと実感がわいてきました。ブラジルでは、W杯は大きなお祭りなんですよ。4年に一度だから、なおさら盛り上がる。しかも全員が、同じシーンを見て共通の体験をするんですから、もしブラジルが点を取ったら大騒ぎです。通りで花火は上がるし、車はクラクションを鳴らしながらパレードを始めるし。もうファナティックといってもいいくらいだけど、子どもにとってはワクワクするお祭りなんだね。

僕が印象に残っているのは、78年のアルゼンチン大会です。ケンペスがいて、リベリーノ、ジーコ、サンパウロFCの先輩のオスカーさんもいました。ネリーニョという右サイドバックがいて、いまのロベルト・カルロスの3倍くらいカーブするすごいシュートを決めたのをよく覚えてますね。そのころから“自分も将来はW杯でプレーしたい、自分のプレーを、最高の舞台で見てもらいたい”というのが夢になった。それが、日本という国でかなうんですから……頑張ってきたことが、やっと認められたという気持ちです」

初めてスパイクを手に入れたのはプロ入り後

そのW杯から6年後。呂比須は、16歳でブラジルの名門・サンパウロFCとプロ契約した。そして87年には、当時日産自動車(現横浜F・マリノス)の監督だった加茂周氏に誘われ来日。90年には日立(現柏レイソル)、95年本田技研、97年ベルマーレ平塚とプレーを続けるうち、心底から日本を愛するようになる。97年9月には、5年がかりで進めてきた帰化申請が認められると、ほどなく日本代表入り。柔らかなボールタッチ、正確なポジショニング、冷静なシュート、そして強靭なポストプレーが貴重な得点源となった。

「それにしても……代表入りしてからは人生変わりましたね。帰化が間に合えばいいなと思っていた去年(97年)の夏前なら、買い物もゆっくりできたし子どもと映画も見に行けた。それがこの間、子ども(イゴール君)と映画『ミスター・ビーン』を見に行ったら、お客さんがみんな僕のほうにやって来てパニック状態になりましたし、買い物に行っても目立っちゃうし……。僕はうれしいんですよ。すごくうれしいし誇りに思うんだけど、子どもがかわいそうだね。幼稚園では、すごい人気者になったらしいけど(笑)。

ほんとうに、いろんなことがありました。余裕で帰化が間に合うはずだったのに、最終予選の日程が繰り上がって焦りましたし、予選の期間中には監督が交代するし、お母さん(ルジアさん)が亡くなるし。もちろん、W杯の出場権をとったことも、代表に選ばれたこともそうです。うれしいことも悲しいこともたくさんあった。すごく早い1年でした」

■代表入りして人生が変わったというのは、実感がこもっています。呂比須さんにはもうひとつ、“人生が変わった”経験がありますよね。16歳でサンパウロFCと契約したときも、人生が急転回した。

「それまで僕は、靴工場で働いていたんです。朝6時に起きて会社に行き、12時間働いていったん家に帰り、自転車で12キロ走って夜7時半から学校です。11時に学校が終わると、寝るのはもう夜中。サッカーができるのは、土日だけ。そういう毎日でした。それがプロ契約したら、起きるのは8時半か9時でいいし、午前中練習したら午後の練習まではフリーです。夜学校に行くのは変わらないけど、フリーの時間はなにをやってもかまわないんですよ。食事をして、寝ていてもいい。働いているときには考えられないことでした。幸せだなぁ、いいなぁと思いましたね。

靴工場では、月給が日本円で1万5000円くらいでした。そのうち1万円をお母さんに渡し、スパイクを初めて買ったのは残りのお金をやりくりして6カ月ローンでした。それまでは裸足でボールを蹴っていたんですが、こういう生活は、日本では考えられないでしょう。だけどそういうハングリーさが、ブラジルのサッカーを支えているんですよ。ハングリーな環境にいるから、サッカーでお金を稼ぐことしか考えていない。ブラジルのプロ選手でも、裕福な家庭の子どもは少ないんですが、それはハングリーさの量の違いだと思いますね」(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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