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名門復活へ。安田猛氏、母校・小倉のコーチに

楊順行スポーツライター
小倉高校グラウンドの一角に建つモニュメント

福岡県立小倉高校野球部は、1910年に創部すると、19年夏に初めて全国大会に出場してベスト4入りした。戦火が激しくなった44年、一時廃部。その翌45年、終戦を迎えて復活した野球部に、一人の新入生が入学してきた。福嶋一雄だ。体は細かったが170センチあり、すぐに投手に抜擢された。2年になった46年、27年ぶりの全国大会出場(ただし甲子園ではなく、西宮球場で開催)を果たすと、福嶋もベンチ入りしている。

初戦敗退したあとの福嶋は、八幡製鐵で鳴らした鬼塚格三郎監督の手ほどきで、技巧派に脱皮した。制球重視で投球が安定すると、山口・徳山で開かれた選抜大会で、それまで一度も勝てなかった強豪・下関商を抑えたのが注目され(現行のような秋季九州地区大会はまだ、ない)、翌47年のセンバツに初出場。そのセンバツでは、決勝こそ延長13回1対3で徳島商に惜敗したが、準優勝を果たした。

そして春夏連続出場の47年夏は、前評判の高かった桐生中を2回戦で下すなど、あれよあれよの初優勝。福嶋は全試合を一人で投げ抜き、深紅の優勝旗が初めて関門海峡を越えることになる。4季連続出場となった48年センバツは初戦負けしたが、学制改革で中等学校野球優勝大会から高校野球選手権となったその48年夏も、5季連続出場の甲子園で順調に白星を重ねた。前年優勝校とあり、どの相手も打倒・福嶋に闘志をむき出しにしたが、鋭いカーブやチェンジアップを駆使する技巧派の投球は、難攻不落だ。4試合連続完封で進出した桐蔭との決勝でも、押し出しの四球で得た1点を守りきってテンポよく完封。小倉は史上5校目の夏連覇を達成し、福嶋は史上2人目の全5試合45イニング無失点という大記録を樹立するのである。

翌49年、6季連続出場のセンバツでは、福嶋が中西太(のち西鉄)のいた高松一を完封するなどしたが、ベスト4止まり。31〜33年に中京商(現中京大中京)がマークした3連覇に挑んだ49年夏も、準々決勝で倉敷工に延長で敗れた。連覇のあと、断り切れない招待試合が続き、福嶋のヒジが限界に達していたともいわれる。

野球殿堂入りの福嶋一雄が「甲子園の土」第1号

この倉敷工との延長10回、サヨナラ負けの瞬間を福嶋は、マウンドではなくレフトの守備位置で迎えた。退場する際、スコアボードを仰ぎ見ながら、無意識のうちにグラウンドの土を一握り、ユニフォームの尻ポケットにしのばせた。やがて、小倉に帰った福嶋のもとに、1通の手紙が届く。大会副審判長の、長浜俊三氏からだった。

「甲子園で学んだものは、学校教育では学べないものだ。君のポケットに入ったその土には、それがすべて詰まっている。それを糧に、これからの人生を正しく大事に生きてほしい」

福嶋があわてて洗濯前のユニフォームを確かめると、ほんの一さじほどの甲子園の土が出てきた。ほかにも諸説があるが、土を持ち帰るという甲子園の風習はこれがルーツといわれ、福嶋は「甲子園の土第1号」と称されるようになった。甲子園通算17勝。その後、早稲田大で4度のリーグ優勝、八幡製鐵では2度目の都市対抗優勝に貢献した福嶋は、その功績によって2013年、野球殿堂入りしている。

実は小倉は、福嶋を母校に呼び戻したことがある。左腕・畑隆幸(のち西鉄)を擁して出場した54年のセンバツ。八幡製鐵への入社が決まり、小倉への列車に乗ろうとすると、「大阪で途中下車して、甲子園で臨時監督をやってくれ」と連絡が入った。決勝の予定日が入社式と重ってはいたものの、福嶋は「それまでなら」と申し出を快諾。すると、まさかまさかの決勝進出である。後ろ髪を引かれながら甲子園をあとにするしかなかったが、その決勝は、飯田長姫に0対1となんとも惜しい敗戦だ。もし、八幡製鐵の入社式が1日ずれていたら……結果はどうだっただろうか。

その後小倉は、昭和30年代前半までは甲子園の常連だったが、60年代に入るとぱたりと勝てなくなった。62年夏に全国準優勝した久留米商の復活、柳川商(現柳川)など、福岡南部勢が力をつけ、安田猛(元ヤクルト)が在学中の65年にも、福岡の準決勝で敗れた相手・三池工が、原貢監督の指揮で県勢2校目の全国制覇。結局60年代は、安田を擁した65・66年と、69年のセンバツがあるだけで、夏の甲子園出場はない。さらに60年には、小倉の商業科が小倉商として分離独立。それまで、野球部員の3分の1は商業科に属していたが、普通科進学校に特化したことで、戦力が大きく殺がれたといえる。

さらに70年代には、私学が台頭。小倉のいる北部なら八幡大付(現九州国際大付)、自由ケ丘、飯塚。南部でも福岡大大濠、福岡第一、西日本短大付、東福岡……というわけで小倉は、78年のセンバツ以来、甲子園から遠ざかっている。

栄冠はふたたび「われに輝く」か

現在母校を率いる牧村浩二監督は、その78年当時日体大の3年生で、チームに帯同していた。大卒後の81年、定時制の教師として小倉に赴任すると、4年間野球部のコーチを務めた。85年に全日制に異動し、1年間野球部から離れたがその後10年間野球部長。96年に異動した戸畑では00年、05年と2回のセンバツに導き、11年4月、ふたたび母校に戻って監督となった。その牧村が、78年のセンバツを振り返る。

「あのとき、全チームの甲子園練習を見ましたが、ウチが対抗できるとすれば帝京と、前橋あたりか、と。その通り、初戦の相手が帝京さんだったので、なんとか勝てました(3対0)」

帝京といえばいまは屈指の強豪だが、そのときが初夏通じて初の甲子園。小倉という名門の看板は、まぶしかったに違いない。看板の威光については、もうひとつ。甲子園練習では、あまりの緊張感から内野手がことごとく悪送球。だがこれを見ていた早稲田実・和田明監督は、「見てみろ、小倉はちゃんとクッションボールの練習から始めている。あれが伝統校というものだ」

よくできた笑い話だ。それはともかく帝京戦は、本格派右腕・大石浩正の5安打完封で、12年ぶりの甲子園勝利である。多くのOBや市民は翌日、「名門・小倉復活」という報道を期待した。だが小倉の次の試合で、前橋・松本稔が比叡山を相手に史上初の完全試合を達成。期待より小さい「復活」の文字に、拍子抜けしたという。

それからおよそ40年。近年の小倉には復活気配がある。13年秋には県でベスト4、14年春ベスト8。15年は夏にベスト4に入ると、秋は県準優勝で27季ぶりの九州大会出場を果たし、21世紀枠の県推薦も受けた。この夏も8強。安田氏もそのあたりは承知で、

「県大会でベスト16〜8くらいの力はある。これを甲子園まで引き上げるのが僕の役目。一方で、次代を担う若い指導者も育てたい」

小倉高校のグラウンド。右翼線の突き当たりに、46〜47年の連覇を記念したモニュメントが建つ。鋭角にカットされた2つの大理石に彫り込まれた碑文は「ああ栄冠はわれに輝く」。むろん、夏の甲子園の大会歌をもじったものだ。安田氏の指導でふたたび栄冠が輝けば……今度こそ、「復活」という活字が、最大級の大きさで紙面に躍る。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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