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上原晃さん/甲子園のヒーロー その2……夏の甲子園2年連続サヨナラ負け

楊順行スポーツライター
子どもたちに野球を教えているためか、いい色に焼けている上原さん

夏の甲子園で、沖縄勢が初めて優勝したのは2010年。島袋洋奨(現ソフトバンク)擁する興南の春夏連覇だ。90、91年には、栽弘義監督率いる沖縄水産が準優勝と、あと一歩まで迫っているが、それ以前にも優勝の可能性を秘めたドクターKがいた。

「三振を取るのは、芸術だと思います。狙って取ることもある。自分の思い通りの投球で三振させたときの気持ちは、最高です」

87年の夏を迎えようとしていたときだ。そのドクターKはそう言った。芸術という言葉の選び方は、高校生としてはなかなか秀逸だ。

「そんなこと、言いましたっけ?」

上原晃さん。88年に中日入りすると、ルーキーイヤーからリリーフなどで活躍。だが血行障害などに悩まされ、通算19勝1セーブで98年に引退した。現在は、愛知県・守山カトウ整体で整体の仕事に従事している。

スピードを栽監督に見込まれ、普天間中から沖縄水産に入学した上原さんは、いきなり4月から登板機会を与えられた。九州大会では、ほかの選手がお目当てだったプロのスカウトがうなる。フォームは荒削りながら、スピードが桁違いなのだ。もともと、天性のバネを持っていた。生後2カ月で寝返りを打ち、8カ月ではうつぶせのまま両足を宙に浮かせたというから、バネだけではなく背筋も強かった。さらに小学校5年で野球を始めると、重さ1キロの金属製のボールを手作りし、手首を鍛えた。これらが、スピードのルーツにある。

まっすぐ1本しかないながら、入学から4か月で甲子園のマウンドにも立った。1年秋の新チームでは、33試合に登板して254回151三振。86年センバツでは、敗れはしたが上宮(大阪)から10個の三振を奪っている。2年夏になると、前年秋には覚え始めだったスライダーに磨きがかかる。沖縄大会では、5試合43回を投げて45三振を奪い、防御率も0・63だ。さらに2年の秋、県大会2試合で37三振を奪うなど、135回を投げて154三振。3年春の県大会では、1試合21三振という驚異的な数字を残した。

3年夏も、県大会5試合に投げて40回45三振、防御率0・67。ストレートは150キロに迫り、スライダーも逸品。だから3年連続の夏の甲子園では、沖縄県勢初の優勝の期待がかかったのだ。だがその87年夏は、セーフティー・スクイズなどでかき回され、準優勝する常総学院(茨城)に2回戦で敗退。結局出場した4回の甲子園のうち、最高成績は2年夏のベスト8にとどまっている。

2年連続サヨナラ負けと、盛田幸妃との二度の投げ合い

上原さんの甲子園は、どちらかというと悲運というイメージだ。まず、1年の夏。3回戦で鹿児島商工(現樟南)と対戦した。上原さんは7回無死一、二塁から二番手で登板。四球を2つ続けて1点を失ったが後続を抑え、5対4と一点のリードは守った。迎えた9回裏。一死満塁のピンチを招くと、ふたたび押し出しで同点とされ、次打者に対する投球がベースに当たってバウンドし、サヨナラ負けを喫する。サヨナラ暴投を、いま振り返る。

「当時はまだ、変化球を投げられませんでした。ただ、いまで言うツーシームのように指をかけ、縫い目をずらすことでスライダー気味、シュート気味のボールを投げていた。ですからあの暴投はまっすぐなんですが、力んでしまってホームベースの角に当たり、それが大きくはねてしまった。1年生だったから、先輩に申し訳ない思いで一杯でしたね……」

しばらくは、夢にまで鹿商工の応援が出てきたという。借りを返したい一心で上原は、試行錯誤を繰り返した。ぎこちないフォームなのは、自分でもわかっている。制球力のなさも、大きな課題だ。だから、ノーワインドアップにフォームを改造したし、ホームベース上に網を張り、四隅にあいた穴を通すという練習もやった。それが、86年のセンバツに結びついたわけだ。

3季連続出場だった86年の夏、上原さんは帯広三条(北北海道)との初戦で8回10三振、3回戦の京都商(現京都学園)戦は8三振で完封した。投球回以上の三振を奪う好調ぶりだ。準々決勝は、松山商(愛媛)が相手だ。2点をリードしていた8回の守り。無死一、三塁から、またも自らの暴投で1点を献上し、さらに守備の乱れもあって同点に追いつかれる。そして、9回一死満塁から、サヨナラ二塁打を浴びた。つまり上原さんは夏の甲子園で、2年連続サヨナラ負けを喫したわけだ。記録としてはこれ、かなり希有な例だろう。もっといえば、きっかけはいずれも自らの暴投なのだ。

「2年の夏が、チャンスでしたよね。スライダーは縦と横の2種類あり、おもしろいように三振が取れました。それだけ好調だったので、甲子園には優勝旗を取りに行ったんですよ。ただ……1年夏のサヨナラ暴投といい、2年のときもサヨナラ負け……同点にされたのは、僕の暴投がからんでいるんですか? 悪い記憶は、頭から消したいんですよね。だから、よく覚えていない(笑)」

もうひとつ、希有なエピソードを付け加えておこう。上原さんが1年生だった85年夏、函館有斗(現函館大有斗、南北海道)との初戦で投げ合ったのが、やはり1年だった盛田幸妃(元横浜ほか)だ。沖縄水産が勝ったこの試合は、どちらも責任投手ではなかったが、両校はなんと2年後の87年夏も初戦で激突。このときも沖縄が勝っており、上原は2失点、盛田は3失点で完投している。のちにプロ入りする投手の甲子園での投げ合いはいくらでもあるが、1年と3年の2回というのは、なかなかめずらしい。

この話、拙著『高校野球100年のヒーロー』でも詳しくふれています。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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