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「ワシの野球は負けから始まったんや」池田・蔦文也伝説 その3

楊順行スポーツライター

「投手はもちろん、すべての面で相手が一枚上でした」

センバツ7日目。豊川に1対4と力負けしてベスト8進出はならなかったが、池田を率いる岡田康志監督はさばさばだ。27年ぶりのセンバツ出場で、勝利もそのときぶり。98年まで母校を率い、他校へ転出して復帰したのが10年。「定年まで、ずっと出られないかもと思ったこともある」甲子園だから、感慨もひとしおだ。対戦相手を率いた今井陽一監督が、83年夏、水野雄仁らがいて最強を誇った池田に敗れている中京(現中京大中京)の選手だったというのも、なにかの縁か。

その水野らが制した83年春から3年後。池田が2度目のセンバツ優勝を果たしたときのエースが梶田茂生だった。池田から筑波大、日本生命でプレーを続けた。その梶田は、自らの高校時代をこんなふうに振り返る。

「僕はこんなに小さいでしょう。なにしろ、中学3年で初めて蔦さんと会ったとき”オマエ、小さいのう“の一言です。だからまさかピッチャーなんて……」

なるほど、当時の登録は165センチ。1年生のとき、たまたま使ってもらった練習試合でホームランを打ち、野手としてベンチ入り。2年でレギュラーになると、新チームでは「オマエ、ピッチャーやれ。春まででいいから」と、蔦文也監督にニヤリといわれた。「はっ、やらさせていただきます」。中学まではピッチャーだったといっても、いわば急造投手が86年春の全国Vを遂げるのだから、野球というのはおもしろい。その、梶田。

「86年のセンバツ、ラッキーボーイは平田(淳司)でした」

1回戦、福岡大大濠に6回まで2安打に封じられ、3点のビハインド。7回裏無死一塁、途中出場の平田が二塁打を放ってチャンスをつくるのだが、実はこのときのサインはバントだった。平田が見落としたのである。続く一番打者の右前打で1点を返し、無死一、三塁。二番打者の2球目に蔦はスクイズを仕掛けたがピッチャーフライとなり、一塁走者も飛び出してゲッツー。しかし、三走の平田はベースについたままだ。つまり、またもサインの見落とし。蔦は、悔しまぎれに帽子を後方に放り投げた。

ただケガの功名というか、もしサインを見落としていなかったらトリプルプレーもありえたスクイズ失敗にも、結果的にランナーが一人残っていた。すると次打者が、初球をレフトに運んで同点ホームラン……。

「だけど爺さん、いや、蔦先生、そのシーンを見ていないんです。甲子園のベンチには段差があって、自分で放った帽子をそこまでとりにいったから、歓声が起きてもなにがなんだかわからなかった。まあ僕も、ネクストにいたからベンチの様子はわからなかったですが、もう大爆笑やったらしいです(笑)」

1回戦を突破するとその平田、2回戦からスタメン出場して準々決勝では先制打などの活躍など、まさにラッキーボーイになるのである。

あの人のオーラに守られてたんやな

「あの人には、不思議な力がありました。無意識に帽子をかぶり直すだけ、鼻をこするだけで、相手が警戒してバタバタしたり、ベンチがざわざわしたり。僕らからすると、足を組んでベンチにどかっとすわっているだけですから”大丈夫か、この爺さん“と思っているんです。それでも、相手にプレッシャーをかけていたのはエースでも、四番でもなく、あのオーラ。あれに守られてたんやな、と思いますね」。

センバツで優勝した夜、バッテリーで宿舎の部屋に呼ばれた。いややで、優勝して説教は……と部屋に入ったら、「ようやった」。ああよかった、春まで限定のはずだから、もうピッチャーはやらんでいいんやろうな、と思っていると「優勝してしもうたらしゃあない、夏までピッチャーやれ」。がくっときたが、ハラをくくった。なにしろ急造投手、春はスピードは二の次でタイミングと制球重視だった。だが、夏までにはもっとスピードが出て変化球が生きるようになるはずだ。事実、夏の徳島県大会を迎えるころには、梶田のスピードは3、4キロは上がっていた。そしてエースとして、ふたたび86年夏の甲子園に出場。ところが梶田は、その速くなったまっすぐに頼り、池田は1回戦で玉砕するのである。

「負けたあと蔦先生、”タマが速ようなって、ちょうど打ちごろになってしもうたの。前は遅すぎてタイミングがとれんかったのかもしれん“と。せっかく頑張ったのに、人の気も知らずなんちゅうことを(笑)。でも……僕ね、思うんです。山びこ打線って、ファーストストライクから迷わず打ちにいくでしょう。大会前のフリーバッティングで、控えの選手が投げてくれるときにストライクを見送ると、”おんどれ、だれのために投げてくれてると思うとんのじゃ!“とものすごく怒るんです。そういうふだんの教えがある」。

梶田はその後、大学から社会人までプレーを続けた。むろん、野手としてである。

27年ぶりの出場は2回戦敗退だった。だが蔦は生前、よくこう語っていたものだ。「ワシは負けることを少しも恥ずかしいとは思わん。ホンマに恥ずかしいんは、負けたことで人間がダメになっていくことぞ」。自身の監督スタートも、大敗だった。甲子園出場まで、20年近くかかった。それからすれば、池田の復活も始まったばかり。蔦の教え子で、その下でコーチも務めた岡田監督はいう。

「久々に全国大会に出場して、雰囲気を肌で感じたのは大きな収穫です」。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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