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山びこ打線をつくった池田・蔦文也伝説 その2

楊順行スポーツライター

本日のセンバツ高校野球は横浜、駒大苫小牧といった過去の全国制覇経験校が敗退した。人気チームが敗れると、なんともいえない寂寥感があるものだけど、82年の夏に5季連続出場のアイドル・荒木大輔の早稲田実が敗れたときは、寂寥もなにもあったものじゃない。なにしろ水野雄仁の大アーチなどで荒木を引きずり下ろした池田が、14得点と木っ端みじんにするのだから。池田は、決勝でも広島商から11得点で優勝を飾る。そのときのエースが畠山準だ。 

決勝前日。畠山は、宿舎・網引旅館で、監督部屋に呼ばれた。入学時、在学中に5回の甲子園出場も夢じゃないといわれた。だが期待を裏切り続け、3年の夏にようやく出場がかなった。徳島の決勝、一時3対0とリードしながら追いつかれ、円陣を組んだときに蔦文也監督に蹴とばされている。それも、テレビ中継に映らないよう、巧妙に計算されつくした角度で、だ。その試合をなんとかモノにすると、甲子園でも頂点まであとひとつ。夕食のとき、テレビ取材用に「ワシを日本一にしてくれ」というような話はしていた。なんてこというとんのじゃ、プレッシャーをかけて……と思っていると、あらためて一人だけご指名がかかったというわけだ。蔦は、こう切り出した。

「甲子園のあと、オールジャパンがあるじゃろ。オマエは当然選ばれるけど、優勝したらもっといっぱいウチから選ばれるで。なあ、だから優勝しようや」

いい方がニクイのである。それまでの池田は、春夏とも準優勝が1回。自分が一番優勝したいくせに……ブン(蔦)はもともと乗せ上手なのだ。小松島に畠山あり、と騒がれていた中学時代、誘いに来たときもそうだ。すでに徳島商、鳴門工、鳴門、鳴門商……と引く手あまただった畠山の選択肢には、池田はなかった。ただ、さわやかイレブンで準優勝した74年のセンバツは、少年野球チームの仲間と甲子園まで応援に行った。むろん、名物監督の顔は知っている。その蔦が、じきじきに家まで来てくれ、硬式ボールを1ダース置いていってポツリ「練習しておけ」。それだけ。池田に来い、とは一言もいわない。でも、ぐらりときた。なにしろこの年(79年)の夏の、準優勝監督なのだ。

キャッチボールもろくにしないでフリー打撃

池田に入学してすぐのこと。英語の授業で居眠りしてしまった。それがどう回り回ったのかブンに伝わり、いきなり顔を張られた。畠山は、回想する。

「練習が終わって寮にいたら、電話で呼び出されたんです。いま寿司屋で飲んでいるから来い、と。飲んでいるところに行ったのは、僕くらいじゃないですか。で、おそるおそる走っていったら”殴るの、うまいやろ。以上、帰れ“。寿司でも食わせてくれると思ったんですがね(笑)」

軍隊経験があるからか、万事それ式だった。蔦監督は、蔦先生でもあったのだが、ブンの地理の授業は居眠り厳禁。しかも、野球部員は決まってあてられる。いつ自分に振ってくるかわからないから、緊張して、寝るどころじゃない。そして、ブンがもっともイキイキしてくるのは練習のときだ。

「練習はたぶん、ほかの学校とは形式が違うでしょう。なにしろ、キャッチボールもろくにしないでいきなりフリー。また僕らが投げるのはブルペンより、つねに実戦形式。多ければ、1日300球くらい投げました」

もっとも、抜けるときは巧妙に抜いた。池田のトレーニング場はグラウンドから死角になるから、畠山は水野に目配せして「ウエイト、行くか」。一人見張りを立て、1時間ほどのんびりして、グラウンドに戻るときはアタマから水をかぶり、汗に見せかけた。だけど「自分がピッチャー出身ですから、お見通しだったんじゃないですかね」。食えない人である。

池田の練習はさほど長くはない。通常、6時半まで。それでも、さすがに本番直前の6月になると8時ころまでグラウンドにいる。ただ、列車通学組は時間に合わせて「●●線、あがれ!」と早く練習を切り上げる。寮生活の畠山は、それがちょっとうらやましかった。畠山たちが暮らす学校近くの寮は”大和寮“といって、かつての病院を使わせてもらっていたのだが、各部屋に冷暖房がない。グラスに水を入れておくと、冬などは夜が明けたとき凍っていたという。山間部の池田は、それほど寒い。

「四国とはいえ、雪が積もるのもめずらしくないんですよ。でも僕ら沿岸部の人間からしたら、雪なんてめったにないことでしょう。ある日、30センチくらいの雪の中を”走れ走れ、いい思い出になるじゃろう“と、シューズのまま走ったことがありました。本人は、それを笑いながら見ているんです」

卒業し、南海入りして1年が過ぎたオフ。畠山が正月に挨拶に行くと、「酒、飲もか。倉庫にたくさん入っているから、好きなのを持って寮に行こ。みんな帰省しているから、そこで飲もうや」。同期の何人かが、ナポレオンやらヘネシーやら、思い思いの銘柄を持ち出すと、「オマエら、ええもんばっかり持って行くなぁ」と笑っていた。「蔦さんの酒量は落ちていましたが、やっと1対1で、ふつうに話せた気がします」。

雪の中を走ったのも、確かにいい思い出になっていた。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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