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山びこ打線をつくった池田・蔦文也伝説 その1

楊順行スポーツライター

センバツ高校野球が雨で順延になった26日、THE PAGEというサイトに池田高校の原稿を書かせてもらった。分量の制約で書ききれないことがあったので、池田が勝ち残っているうちに、ここに書こう。

かつての池田を率い、希有な人気チームに育てた蔦文也という名物監督については、ウィキでも引いてもらえばたいがいのことはわかるのだが、僕は蔦の人となりを聞くために、世代の異なる池田野球部のOB数人に話を聞いたことがある。まずは、さわやかイレブンで74年のセンバツに準優勝し、社会人・四国銀行で野球を続けた山本智久さんだ。

開会式直後の第1試合、後攻めの池田のエース・山本さんは、投球練習の第1球を、バックネットに直接ぶつける大暴投。ベンチの蔦さんもさすがにビックリしたはずだ。大暴投は意図的だった、と山本さんはいう。

「僕ら田舎の子どもやき、大舞台ではどうせ緊張する。それなら、試合の前に出しちゃろう、と」。田舎の子というには大胆だ。

71年の夏に甲子園の土を踏んでいる池田だが、センバツ出場は初めてだった。だが、開幕試合を含めて接戦を次々と勝ち上がり、準優勝を飾る。ベンチ入りメンバーはわずか11人。9人の出場選手にベースコーチが2人出れば、ちょうどだ。決勝で対戦した報徳学園の部員数は、出場校中最多の59。ピッチャーだけでも、池田の全部員と同じ11人いた。だが、山の子たちの一歩も引かない試合ぶりが共感を呼び、「ウチが地元なのに、球場全体が池田の味方のよう」(当時の報徳学園監督・福島敦夫氏)というほど、人気を独占した。さわやかイレブン、だ。この年の夏から金属バットが採用されたから、木のバットによる最後の甲子園だった。

「そこそこ自信はあったですよ。秋の大会は22試合に投げて10完封ですし、いつも練習から実戦的なことをしていましたから」

という山本ら故郷のヒーローたちに、山あいの町・徳島県池田町(現三好市)は盆と正月が一緒に来たような騒ぎだ。「出発するときは後援会長と、校長くらいしか見送りがいなかったのに、帰ったらもう大変だった」(山本)。11人は山本、ファースト・控え投手の石川武吉(ちなみに、山本に話を聞いたのは石川が営む徳島市内の焼鳥屋”武吉“である)をはじめ、大半が池田中か、近隣の出身者。○○さんちの●●君という顔見知りばかりで、それが難敵強豪を相手に堂々の準優勝に、町が沸き立つのもわかる。

ただ……山本たちは、なにがなんでも甲子園、と池田に進んだわけじゃなかった。自分が通える普通科の高校がたまたま池田であり、山本の場合なら「中学時代の最後の試合、体調が悪くて満足に試合に出られなかった悔しさで」高校でも野球を続けようと思った程度だ。

蔦監督も、ときどき池田中の練習に顔を出した。高校の練習が試験休みになると、手持ちぶさたで中学のグラウンドに足を運び、飲み友だちである中学の監督とそのまま夜の街に消えた。だから山本は、入学前から顔はよく知っていた。だけど野球部に入ると、練習のきつさに驚いた。イレギュラー対策として、小石だらけの吉野川の川原でノックに飛びつき、捕れないのが当たり前なのに罵声を浴びる。冬場ともなると、帽子のひさしに雪が凍り付いても打撃練習をやめない。全員でグラウンドを走るとき、スパイクの音がきちっとそろうまでは何十周走っても終わらない。山本はいう。

イレブンは実は12人いた?

「僕らが入ったころは、ブン(蔦監督)も50歳前のバリバリ。練習が厳しいから、新入部員は毎年10人以上いても、次々にやめていって残るのは4、5人。人数が減れば、さらに一人アタマの練習の密度が濃くなる。しかも11人しかいないのに、3カ所バッティングをやるんですよ。バッテリーとバッターで9人ですから、2人しか残らない。ときには、ブンもバッティングピッチャーをやりました。どれだけ効率的できつかったか(笑)。実はセンバツ出場が決まってからも、一人やめているんです。それでも2学年で11人なら、多いほうじゃなかったかな」。

つまり、イレブンじゃなくてトウェレブだった可能性もあるわけだ。当時の報道を見ると、大事な選手にケガでもされたら大変、とプロテクターをつけてノックを受けた、とあるが、山本の記憶によるとそんな高級なものじゃない。至近距離からの個人ノックで、単に恐怖感を取り除くだけの工夫だった。そのノック、いまも伝説になっているほどのうまさである。捕れるかどうか憎らしいほどギリギリに、計ったように打つ。名手すら苦手とするキャッチャーフライだって、思いのままに打ち分けた。

ナミの人じゃなかった。ビールは1ケースくらい平気であけるし、赤い顔をして練習に来ることもめずらしくなかった。高知に練習試合に行くと、終わったあと、「わしゃ飲んで帰るけん、先に帰っとれ」と選手だけを鉄道に乗せた。ピッチャー出身ながら、技術指導はなし。とにかく球数を放れ、疲れたときにこそ理想的なフォームになるから、それを体で覚えろ。豪快である、大まかである。半面、センバツ初戦をホームスチールで勝っているように、不思議なほど野球は緻密だった。当時から打撃練習が大好きだったが、バント練習も重視した。

「バットを振らず、当てるだけのバントができなければ、バットを振っても当たるわけがない、と。また、練習試合でサインを間違うと、いったん試合を止めてかんで含めるように話す。甲子園のホームスチールも、練習試合で何度か経験があるから、おそらくみんな”やるな“と思った作戦でしょう。スクイズも、大好きだった。ずっと徳島で勝てなかったから、いろいろと細かいことを考えていたんだと思いますね」

3点を取ればなんとかなった木製バットの時代。山びこ以前の池田は、バントに足をからめ、アウトと交換に塁をひとつずつ進めていく泥臭い野球だった。

山本が、くっきりと覚えていることがある。少人数のため、短時間ですませようと自転車の後ろにトンボをくくりつけてグラウンドをならしていると「こらぁ! 神聖なグラウンドを、なんだと思ってるんじゃ」とカミナリが落ちた。だが翌日から、当の本人が自転車でトンボをかけている。まるで、鼻歌でも出そうな表情で。それは長く、蔦監督のユーモラスな風景となっていた。

「よくも悪くも、”親分“(蔦文也)のチームだったですね」。

01年4月30日、親分の告別式。駆けつけたイレブンのメンバーたちが、棺をかついだ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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