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山岳地帯で銃撃戦、知られざるインドネシア・パプア独立紛争 非暴力運動も圧殺され、流血の連鎖

米元文秋ジャーナリスト
2001年、非暴力独立運動指導者の殺害に抗議するデモで警官に拘束された参加者(写真:ロイター/アフロ)

 山岳地帯の冷涼な空気を銃声がつんざいた。銃弾を浴びた27歳の兵士は渓谷を15メートル滑落し、死亡した。彼の家には妻と1歳半の娘が残された。

 インドネシア・パプア地方で15日に起きた戦闘。銃撃したのは同地方の分離独立を目指す先住民武装組織「西パプア民族解放軍(TPNPB)」だ。TPNPB側は19日、一連のインドネシア国軍への攻撃で、兵士15人を死亡させたと主張した。TPNPBは独立運動組織「自由パプア機構(OPM)」の軍事部門だ。

 国軍はTPNPBの主張する死者数などを「虚偽情報」として否定しているが、20日、兵士4人の遺体を収容したと発表した。パプア地方からの報道によると、国軍の部隊は2月以来TPNPBの人質になっているニュージーランド人の民間機パイロットの捜索に当たっていて、待ち伏せ攻撃を受けた。ほかに兵士1人が行方不明になっているとの情報もある。国軍はTPNPB制圧に向けてパプア地方展開部隊を「戦闘態勢」に置いた。衝突のエスカレートも懸念されている。

 人口2億7000万人、経済成長に沸きショッピングモールが林立、いずれ国内総生産(GDP)が日本を抜き去るとも予想される大国インドネシア。その東端のパプア地方では半世紀以上にわたり、知られざる独立紛争が続いている。銃や弓矢で武装したTPNPBによる散発的な襲撃と、国軍・警察による掃討作戦という流血の連鎖が続き、殺傷されたり避難を強いられたりする一般住民も続出している。

 この記事では、同地方がインドネシア領に統合・併合された歴史を振り返り、非暴力の独立運動でさえも踏みにじられてきた経緯に触れる。

2018年にパプア地方で起きたTPNPBによる道路建設労働者集団殺害事件の現場周辺地図。今回の銃撃戦と同じンドゥガ県内
2018年にパプア地方で起きたTPNPBによる道路建設労働者集団殺害事件の現場周辺地図。今回の銃撃戦と同じンドゥガ県内写真:ロイター/アフロ

豊富な資源、「私たちはメラネシア人」

 パプア地方はニューギニア島のほぼ西半分を占める。面積は日本全土の1.1倍、人口は540万人。金、銅、天然ガスなどの天然資源に富んでいる。

 先住民であるパプア人の多くは、言語系統や外見上の特徴が、現在のインドネシア人の多数派であるオーストロネシア(マレー・ポリネシア)語族の人々とはかなり異なる。近年の遺伝子研究によると、現生人類のうち最も早い時期(数万年前)にニューギニア島やオーストラリアに到達した人々の子孫と推定されている。山間部などでは石器時代と似た暮らしが営まれていた。

 インドネシアの支配に反対するパプア人学生らに取材すると「私たちはメラネシア人だ。インドネシア人とは違う」という言葉が返ってきた。メラネシアとは、ニューギニア島やソロモン諸島などから成る地域の名称。「黒い(人々の)島々」を意味するギリシャ語に由来する。

併合、当事者は蚊帳の外

 異質なアイデンティティーを抱く人々が暮らすパプア地方は、どのような経緯でインドネシアに組み込まれたのか。

 インドネシアはオランダによる植民地支配や日本軍政などの苦難をへて、1945年にスカルノらが独立を宣言。再侵略を図るオランダなどと戦い、49年に「オランダ領東インド」の群島を領土として独立を達成した。しかし、パプア地方はオランダの支配下に残された。

 スカルノ初代大統領らは、インドネシアを、オランダの支配や反植民地闘争を歴史的体験として共有する多様な種族(民族)から成る統一国家として構想した。パプアの統合は宿願だった。

 しかしオランダはパプア人に対し「西パプア」としての分離独立を認める動きを見せた。反発したスカルノは61年に「西イリアン解放闘争」を発動した。インドネシア独立戦争の延長戦の意味合いを持たせた併合作戦だ。司令官にはスハルトを任命した。

 冷戦下、スカルノ政権の東側傾斜を警戒する米国の仲介で、インドネシアとオランダは、パプア地方の管轄権を国連に暫定的に委ねた後にインドネシアへ移すことで手を打った。最終的な帰属については、住民投票による「自由選択行為」で決めることになった。

 しかし管轄権を移譲されたインドネシアはパプア人の政治活動の自由を抑圧、69年に行われた「自由選択行為」は、インドネシア主導で任命・選出された議員1000人ほどによって同国帰属を承認した。

外部住民の移住政策でパプア人が少数派転落も

 当事者でありながら蚊帳の外に置かれた格好のパプア人の間では、60年代半ばから民族自決を掲げる独立運動が活発化した。OPMが結成され、各地で蜂起した。しかしインドネシア国軍の近代兵器を前に多数が殺された。

 インドネシアは、スカルノを追い落として大統領になったスハルトの独裁体制の下、日本などの外資を誘致する開発政策を進めた。米鉱業大手による世界有数の金・銅鉱山の操業などでパプア地方の経済的重要度はますます高まった。

 開発に伴い、パプア人の伝統的な土地所有権の侵害や環境破壊が相次ぎ、抗議運動が起きた。しかしインドネシアはパプア地方を軍事作戦地域(DOM)に指定し、武力で抑え込んだ。知識人らの非暴力的な活動も、長期投獄などで弾圧した。一連の紛争をめぐる犠牲者は10万人とも言われる。

 また、ジャワ島やスラウェシ島などの外部の住民をパプア地方に移住させる国内移民政策「トランスミグラシ」を推進、移住民とパプア人の人口比が逆転する地域が増えてきた。

2001年、殺害された非暴力独立運動指導者テイス・エルアイの遺影を掲げて抗議デモを行う人々
2001年、殺害された非暴力独立運動指導者テイス・エルアイの遺影を掲げて抗議デモを行う人々写真:ロイター/アフロ

民主化のはずが「動物のように殺された」

 そのスハルト政権が1998年に民主化運動の中で崩壊、パプア地方独立運動にも転機が訪れた。「独立回復」を目指すパプア人の集会やデモが各地でせきを切ったように広がった。インドネシアに軍事併合されていた東ティモールが99年の住民投票で独立を選択したこともインパクトとなった。「パプアでも独立の是非を問う住民投票を」との声が公然と聞かれるようになった。

 当時私がパプア地方に行ったとき、再々取材していた人物の一人が、先住民社会の長老で「西パプア評議会」の議長だったテイス・エルアイだ。独立を目指すパプア人が「国旗」とする「明けの明星」旗を掲揚する非暴力運動をリードしていた。

 しかし彼は2000年に逮捕され、政府転覆予備罪に問われた。保釈されたが01年に殺害された。国軍に夕食会に誘い出された後、遺体が林で発見された。

 「顔は黒くなり、舌を出していました。なぜ動物のように殺し、投げ捨てたの」と、テイスの妻は私に夫の死にざまを語った。テイスを殺害したとされた現地の特殊部隊の指揮官と部下計5人が除隊処分となったと公表された。

 インドネシアはパプア地方に特別自治を導入し、天然資源歳入の配分などで優遇姿勢を示した。一方で、独立運動については非暴力の活動であっても処罰の対象とする方針に回帰していった。

 分離独立を望む者が非暴力で思いを表現することさえ罪に問われ、ときには殺害の対象とされるとしたら、どんな道が残されるのだろうか。

 一つは、独立を諦め、インドネシア国民として生きる道だ。

 もう一つは、あくまで国際社会の関与を呼び掛け、独立の是非を問う住民投票の実現を追求する道だ。テイスの遺志を継ぐように「明けの明星」旗を掲げて非暴力的なデモを行い、逮捕された人々がいた。他方、銃や弓矢を用いて戦い、国際的な関心を集めようと試み続けた武装組織があった。

 ニュージーランド人を人質にしているTPNPBは、「パプア独立に向けたパプアとインドネシアの仲介を国連に求める」とのメッセージを人質が述べる動画を公表した。

ジャーナリスト

インドネシアや日本を徘徊する記者。共同通信のベオグラード、ジャカルタ、シンガポールの各特派員として、旧ユーゴスラビアやアルバニア、インドネシア、シンガポール、マレーシアなどを担当。こだわってきたテーマは民族・宗教問題。コソボやアチェの独立紛争など、衝突の現場を歩いてきた。アジア取材に集中すべく独立。あと20数年でGDPが日本を抜き去るとも予想される近未来大国インドネシアを軸に、東南アジア島嶼部の国々をウォッチする。日本人の視野から外れがちな「もう一つのアジア」のざわめきを伝えたい。

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