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インドネシア県議会の顔役は元オーバーステイ 「日本で規律と集中力学んだ」 【旅路・2】

米元文秋ジャーナリスト
地元の湖の畔で歴史や観光振興策を語るメディーさん=米元文秋写す

 意外な人も日本で「オーバーステイ(超過滞在)」で働いていた経験を持っている。インドネシア大統領与党の地域会合の合間、こざっぱりとしたシャツに身を包み、笑顔で支持者に対応していた地方議会の顔役もそうだ。「日本で培った規律正しさと集中力が私の政治活動にも役立っている」と強調する。

 この人はメディー・レンスンさん(47)。私が初めて会ったのは、与党「闘争民主党」がインドネシア・北スラウェシ州の州都マナドで開いた会合の会場からほど近いカフェだ。同州山間部の東ボラアン・モゴンドウ県の県議会副議長を務め、同党支部をまとめる。同県とマナドの間を車で片道4時間ほどかけて行き来する生活だという。

最初は研修生

 金鉱山などを営む一族出身のメディーさんは「ユニークな文化を持つ先進国・日本にあこがれ、行ってみたいと思っていた」。

 専門学校で工業技術を学び、卒業後の1997年、21歳のときに「研修生」として日本に渡った。日本では既に「海外への技術移転」を名目に外国人労働者を受け入れる研修制度が本格化していた。

 日本の第一印象は「街が静かできれいだ」ということ。「インドネシアと違って車のクラクションがうるさくない。東京・秋葉原のような都会でもね。そして安全。置き忘れた物がなくなることはない」とべた褒めする。

「遅刻厳禁」

 茨城県結城市の会社でプラスチック成形の仕事(研修)を始め「規律」を学んだという。

 「工場長に『1分でも5分でも遅刻をしたら駄目だ』と注意された。『メディーさん、1分か5分の遅刻を30日、そして1年繰り返したら計何分になるか計算しなさい』と言われた。インドネシアでは5分ぐらいの遅刻は問題にはならなかった」

 「文化の違い」にも遭遇した。「自動販売機で飲み物を買って工場長に1本あげたら、『お前はカネ持ちか? おれはカネがあるので自分で買う』と怒られた」。びっくりしたが「他人に頼らないこと、自立することを教えられた」と受け止めた。

 「月給は8万円、それに残業代が加わると月10万円以上になった」とメディーさんはふり返る。この時期、インドネシアには97年にアジア通貨危機が波及し、通貨ルピアは98年にかけて暴落し、計算上の10万円の価値は跳ね上がった。

 メディーさんは結城市で働いた後、長野県小諸市の研修先に移ったが、翌98年にはインドネシアへ帰国したという。

 当時の制度では1年の研修の後、さらに2年間、「実習生」として働けたはずだ。1年で帰国した理由を尋ねると、メディーさんは「同僚の研修生が失踪した。その影響もあり、私はビザの延長ができなかった。もっと日本にいたかったけれど」と話した。

1998年に長野県内で研修生をしていたころのメディーさん=本人のスマホ画面から
1998年に長野県内で研修生をしていたころのメディーさん=本人のスマホ画面から

2回目はオーバーステイ

 帰国後は一族の会社のマネジャーになった。しかし「日本でもっと経験を積みたい」という思いは抑えきれなかった。

 2004年に東京での木材製品の展示会に出張した。その後、友人と共に茨城県大洗町へ向かい、他のインドネシア人が住むアパートに滞在しながら、隣町の同県鉾田市の農家に雇ってもらったという。

 「マネジャーから農民になった。入国した際のビザは3カ月で切れた」。オーバーステイに至ったことになる。「大根やジャガイモの畑で働いた。農業の経験がなかったので作業が遅く、日本人のおばちゃんに『速く』と急かされていた。しゃがむことも多くて足腰が痛んだ」

自動車部品工場で仕事に集中

 農業の次に土木解体の仕事もした。大洗町で8カ月過ごした後、05年に静岡県浜松市に移ったという。

 「大手メーカー傘下の自動車やオートバイの部品工場で溶接作業をした。金属製部品のバリ取り(不要な突起などを除去する作業)もやった。バリ取りは力のいる作業だ。けがをした友人もいた。集中力を欠かさないようにしなければいけない」

 「外国人がたくさん働いていた。ある工場では日本人は10人くらいだが、外国人は約20人いた。インドネシア人のほかフィリピン人やブラジル人も働いていた。私は元研修生で日本語も分かるし、工業技術を勉強していたこともあるので、社長が班長などの仕事を任せてくれた。時給1100円ほど。残業も入れて1日1万2000円ぐらい稼いだ」

県の創設記念のイベントで披露されたジャワの踊り。県内にはジャワ人も多く暮らしている=米元文秋写す
県の創設記念のイベントで披露されたジャワの踊り。県内にはジャワ人も多く暮らしている=米元文秋写す

県議に当選

 約3年間、日本で働いたメディーさんは07年に帰国した。カリマンタン(ボルネオ)島で一族の会社が運営する金鉱の業務に就いた。「妻に『試しにやってみたらいいじゃない』とプッシュされ、県議会議員に立候補し当選した」

 日本から持ち帰った「規律」を同僚議員らに広げたという。「以前は午後2時に会議を開くというと、実際に始まるのは3時や4時というのが当たり前だったが、だんだん時間が守られるようになってきた」

 何かカネのかかる用件があると、上位の人に頼るのが当然と考える風潮もあるが「党の若い者には『仕事をして収入がある者は自分で払え』と指導し、自立を促している」という。

「湖とビーチ」観光振興

 県が産業政策で、金鉱山や農業、漁業などと並んで力を入れているのは、観光振興だ。メディーさんは「わが県には火山があり、20近い湖がある。白い砂浜、美しいダイビングスポットもある。日本などの外国の方にも来ていただきたい」とPRする。

 潜在力はあるが課題は多い。「周辺の県で建設が進む空港とのアクセスを確保したい。ホテルなどもまだまだ素朴なタイプの所が多い」

 車で案内してくれた。海抜1000メートル級の高地にある湖。周囲の峰から雲が湧くのが見える。「気温は15度ぐらいに下がる。日本人が気に入る気候では」と微笑んだ。

 メディー一族が開発を進めるビーチ(Pantai Batubuaya Nuangan)もある。海沿いの道が高潮などで寸断されていたため、ヤシの茂るデコボコの山道に迂回して進むと、目の前に幅200メートルほどの白いビーチが広がった。バンガローなどの整備が進められている。ビーチのブランコでは若い男女がスマホで写真を撮り合っていた。

「あのとき特定技能があれば」

 もし2004年に現在の特定技能のような外国人就労制度があったら、メディーさんはオーバーステイではなく特定技能で日本で働いたのだろうか。この記事を出稿する直前にWhatsApp(メッセージアプリ)で尋ねてみた。「おっしゃるとおり」という返答が返ってきた。実はメディーさんの息子は特定技能プログラムに参加予定で、先日渡航準備のためジャカルタに向かったばかりだという。

 日本とオーストラリアなどの間の協定で、若者が相手国の文化の理解を深めながら働けるワーキングホリデー制度のことを説明すると、メディーさんは「そんな制度があればすばらしい。今後日本はさらに柔軟になっていくと思う。人口増加が最小になる(人口減少)。でも労働力は必要なので」と述べた。日本とインドネシアとの間では、まだ協定はない。

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メディー一族が開発を進めるビーチ(Pantai Batubuaya Nuangan)で若い男女が遊んでいた=米元文秋写す
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【この記事は、Yahoo!ニュース個人のテーマ支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、オーサーが執筆したものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

ジャーナリスト

インドネシアや日本を徘徊する記者。共同通信のベオグラード、ジャカルタ、シンガポールの各特派員として、旧ユーゴスラビアやアルバニア、インドネシア、シンガポール、マレーシアなどを担当。こだわってきたテーマは民族・宗教問題。コソボやアチェの独立紛争など、衝突の現場を歩いてきた。アジア取材に集中すべく独立。あと20数年でGDPが日本を抜き去るとも予想される近未来大国インドネシアを軸に、東南アジア島嶼部の国々をウォッチする。日本人の視野から外れがちな「もう一つのアジア」のざわめきを伝えたい。

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