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なぜ落合博満はセ・リーグで三冠王を獲れなかったのか――落合博満のホームラン論その4

横尾弘一野球ジャーナリスト
MLBとNPBのスターが顔を合わせる日米野球。落合博満は1986年に初出場した。(写真:ロイター/アフロ)

 落合博満にとって1986年は、野球人生を大きく変えた年だと言っていいだろう。ペナントレースでは打率.360、50本塁打、116打点という圧倒的な数字を叩き出し、2年連続3度目の三冠王を手中に収める。3度の三冠王はメジャー・リーグでも例がなく、通算868本塁打の王 貞治に次いで日本の強打者が世界に誇る記録を樹立したのだ。

 だが、その喜びに浸る間もなく、シーズンが終わると移籍騒動が勃発する。果たして、12月23日に中日と1対4の交換トレードが成立。栄光を築き上げたパ・リーグのロッテから、未知の世界であるセ・リーグの中日へ移ることになる。落合には、新天地でも三冠王が期待された。そして、1989、90年は打点王、1990、91年には本塁打王を手にするも、3つの打撃タイトルが揃うことはなかった。

 落合がセ・リーグで三冠王を獲得できなかったのはなぜか。単に1歳ずつ齢を重ねたことか、セとパによる投手の攻め方の違いか。どれも落合の中では的を射ていない。落合自身がはっきりと自覚しているのは、三冠王の頃とはバットスイングが変わってしまったことである。

 史上初めて第8戦までもつれ込んだ日本シリーズを西武が制してから5日後、1986年11月1日から日米野球が開催され、落合も全日本の一員として出場する。実は、落合は日米野球に初出場だった。1979年はファーム暮らしだったし、1981年に来日したカンザスシティ・ロイヤルズは巨人、1984年に来日したボルチモア・オリオールズは広島と巨人が主に対戦したからだ。

 メジャー・リーグ選抜は、巨人でプレー経験のあるデーブ・ジョンソン(ニューヨーク・メッツ監督)が監督、のちに千葉ロッテで監督を務めたボビー・バレンタイン(テキサス・レンジャーズ監督)がコーチで、9日間に7試合が予定された。

 第1戦、全日本は江川 卓(巨人)が先発。だが、ライン・サンドバーグ(シカゴ・カブス)とデール・マーフィー(アトランタ・ブレーブス)に一発を食らうなどパワーの違いを見せつけられ、四番の落合が3打数2安打1打点と気をはくも3対6で敗れる。第2戦は投手戦となり、落合のタイムリーなどで5回裏に全日本が2点を先制する。だが、2本塁打などで瞬く間に逆転されてしまう。落合は4打数2安打1打点だったが、期待されたアーチを描くことはできない。

 そうして迎えた第3戦は、西武球場(現・メットライフドーム)で行なわれる。落合は四番ファーストでスタメン出場し、1回表二死三塁で第1打席が巡って来る。メジャー・リーグ選抜の先発投手は、この年に21勝を挙げているジャック・モリス(デトロイト・タイガース)だ。そのモリスが投げ込んだ渾身のストレートを、落合のバットは真芯でとらえる。打球は、バックスクリーンに向かって一直線に飛ぶ。

完璧に本塁打だと確信した打球が失速する

 「手応えも十分だった」と落合は振り返るが、一塁ベースの手前で打球の行方を追うと、フェンスの手前で急激に失速し、センターを守るマーフィーのグラブに。落合は大きなショックを受ける。真芯でとらえながらも力負けしたのは初めてだった。攻守交替の時間、さすがの落合も頭の中が真っ白になったという。

「当時のメジャー・リーガーは、力と力の勝負をしている選手が大半だった。投手は速球を力一杯に投げ込み、打者はそれをパワフルなスイングで打ち返す。対して日本の野球は、投手はストライク・ゾーンを広く使い、様々な変化球も駆使して勝負をする。だから、打者もパワーよりもバランスのいいスイングを重視して、そうした攻めに対処する。つまり、力一杯のスイングではなく、投手が投げ込むボールの速度、重さ、キレなどの力も利用して弾き返すんだ。投手が投げるボールの力を10とすれば、メジャーはほぼ10の力で打ち返すのに対して、日本では5くらいの力で打ち返す違いがあった。力一杯のスイングよりは、無理のないスイングでボールをとらえにいったほうが、いい打球を飛ばせる確率は高かった」

 1998年にマーク・マグワイア(セントルイス・カージナルス)がシーズン70本塁打の新記録を打ち立てた時も、落合は「マグワイアは日本でも本塁打を量産するか」という質問にこう答えた。

「スライダーなど右投手の逃げていくボールには強いが、スクリューボールなど左投手の逃げていくボールには滅法弱い。また、内角に切り込んで来るボールはファウルになってしまう確率が高い。日本の投手はこうしたデータをもとに、マグワイアが弱いボールを多投し、持ち味のパワーを発揮させないことがイメージできる。メジャーにだって、同じようなデータはあるはずなのに、投手は力勝負を挑んで打たれる。これは野球スタイルの違いで、マグワイアの記録はメジャーだからこそ生まれたとも言えるでしょう」

 話を1986年の日米野球に戻す。落合はメジャーの投手のボールを5くらいの力で打ち返す、つまり、メジャー流の投球に日本流の打撃で対抗し、7打数4安打という結果を残していた。ところが、先に書いた力負けのショックが尾を引いたか、次の打席からは10の力でボールをとらえにいったのである。

 その結果、1安打を放ったものの、自分本来の打撃とはかけ離れたスイングをしてしまったという。落合の身体にはモリスの投球を確実にとらえた感触が残り、脳裏にはその打球が急激に失速したシーンが焼きついていた。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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