上原浩治が現役引退を表明――100勝100セーブ100ホールドに加えて上原が残した大きな功績とは

2004年のアテネ五輪に出場した際の上原浩治。日本代表に残した功績も大きい。(写真:アフロスポーツ)

 しんみりとした雰囲気になるのはわかっていたが、まさか初めの挨拶から泣くとは思わなかった。ペナントレース中にもかかわらず、このままチームにいれば若手の出場機会を奪い、自らの去就が優勝争いにも水を差すと、巨人の上原浩治は5月20日に現役引退の記者会見を開いた。

 東海大仰星高時代は建山義紀のバックで外野を守り、大阪体育大には1浪の末に入学したこともあり、無名から這い上がった逸材と言われていた上原だが、大学3年時には日本代表に選ばれるなど、のちの活躍がイメージできる投球を見せていた。

 初代表だった1997年の第19回アジア野球選手権大会(開催地は台湾・台北市)では、7名の投手陣のうち川上憲伸(当時は明治大4年=元・中日)と前田和之(当時は日通名古屋=元・西武)がコンディション不良で直前に辞退。8日間で7試合を5名の投手で乗り切らなければならない中、韓国戦では先発して7回途中まで2失点に抑えるなど、3試合に登板して制球力のよさを強く印象づけた。

 その実績が認められて招集された8月の第13回インターコンチネンタルカップ(スペイン・バルセロナ)では、先発、リリーフにフル回転。特にキューバとの決勝に先発すると、6回一死まで5安打1失点の快投を見せ、キューバの国際大会での連勝を151で止め、日本にとっては1984年のロサンゼルス五輪以来となる世界一の原動力に。翌1998年の第33回世界野球選手権大会で日本代表のエースを担った上原は、その秋のドラフトで巨人へ入団。これで日の丸を背負うことはないだろうと思われた。

 だが、1997年から国際大会にプロ選手の参加が容認されたことにより、アジアでは韓国やチャイニーズ・タイペイがプロ選手による代表を編成。社会人と大学生によるチームで苦杯を喫した日本も、1999年のシドニー五輪への出場権をかけた第20回アジア野球選手権大会からプロ選手を代表に招集する。

世界の舞台でも最後まで諦めずに戦い抜く姿勢を示す

 これは、野球が五輪競技であり続けるための止むなき流れと言えた。しかし、上原をはじめ、福留孝介(現・阪神)や松中信彦(元・福岡ソフトバンク)らアマチュア時代に世界の野球を経験し、それをステップにプロ入りして活躍している選手は、「アマチュア選手の貴重な経験の場を奪いたくない」と、代表入りには消極的な考えを示す。

 それでも、2003年に長嶋茂雄が日本代表監督に就くと、悲願の世界一を目指してオールプロの代表チームを編成。上原はエースとして、アテネ五輪の出場権獲得に貢献する。このあと、2006年に創設されたワールド・ベースボール・クラシックや2008年の北京五輪など、上原は日本代表の中心的存在としても実績を残していくが、日の丸を背負う際には欠かさない行動があった。1992年のバルセロナから3大会連続で五輪の舞台に立ち、「ミスター・アマチュア野球」と呼ばれた杉浦正則(日本生命)に連絡をすることだ。

 1997年の世界一をともに経験した杉浦から日の丸を背負う気持ちを継承した上原は、日本代表として国際大会に臨む際には「全力で戦ってきます」、大会後には結果の報告を必ず杉浦にしていたという。

「プロが国際大会に出場するようになり、アマチュアが活躍するチャンスは確かに減りました。でも、我々がプロの日本代表を素直に応援できたのは、上原君のような気概を持った選手がいたから。忙しい中、わざわざ連絡をくれる気持ちは嬉しかったですし、何より上原君は最後まで諦めずに戦い抜くという姿勢で、日本代表の誇りを受け継いでくれたと思っています」

 そう杉浦が振り返るように、上原は巨人でも、メジャー・リーグでも、そこでどんな役割を求められても全力で応えようとした。それが、数字としては通算100勝、100セーブ、100ホールドという形で残り、目には見えない部分でも日の丸を背負う覚悟として日本代表に受け継がれている。

 これからは指導者として後進の育成に尽力するのだろうが、上原自身も語っているように、できれば豊かな将来性を備えたアマチュア選手たちを見守り、日本代表にも力を貸していただきたいと思う。