鉄棒金メダリストとの再会に運命を感じた日。内村航平が1年後の8月3日に見せたい光景

2018年世界体操選手権の種目別鉄棒で金のゾンダーランドと銀の内村航平(写真:松尾/アフロスポーツ)

 体操史上最高のオールラウンダーとして知られる内村航平(31=リンガーハット)が、この夏、大きな決断を下した。自身のアイデンティティーとしてこだわり続けてきた個人総合での東京五輪挑戦を封印し、種目別の鉄棒のみに絞って出場を目指すことを表明したのだ。

 五輪3大会に出場し、16年リオデジャネイロ五輪では個人総合2連覇、および団体総合との2冠を達成。世界選手権の個人総合では前人未踏の8連覇の記録を持つ。

“キング”はどのような過程を経て、決断に至ったのか。背景には「鉄棒の神様」の異名を取る金メダリストとの再会があった。

 東京五輪体操競技の大トリとなる種目別鉄棒決勝は、1年後の8月3日に行われる。内村は「最後にドカン!といく演技をしたい」と意欲を燃やしている。

■「どうしても肩の痛みが取れない」と6種目合計で競う個人総合を封印

 7月下旬に行われたナショナル合宿中のオンライン取材。内村は穏やかな声でこう語った。

「本当は6種目で狙いたいんですけど、どうしても肩の痛みが取れなかったんです。苦しい中でやっていくより、痛みが少ない方法で、世界でも評価されている鉄棒で狙った方が、自分としても、サポートしてくれる人たちのためにも、気持ち良く競技をできるのではという思いがありました」

 内村は、15年の金メダルをはじめ、これまでの世界選手権種目別決勝で表彰台に5度上がっている鉄棒に、自らの命運を託すことを決めた。

 ただ、6種目へのこだわりは捨て切れていないとも言う。「個人総合や団体を諦めたのではなく、今の状況で自分が輝ける方法を前向きに考えて決めた」と強調するのはそれが理由だ。実際、鉄棒に絞ることを決めたのは2月だったが、NHKの番組で公表したのは約4カ月後の6月と、時間もかかった。

世界体操選手権の会場には歴代の個人総合金メダリストのパネルが飾られている。これは2015年、グラスゴー世界選手権でのもの。この後さらにもう1枚、内村航平のパネルが増えた(撮影:矢内由美子)
世界体操選手権の会場には歴代の個人総合金メダリストのパネルが飾られている。これは2015年、グラスゴー世界選手権でのもの。この後さらにもう1枚、内村航平のパネルが増えた(撮影:矢内由美子)

■オーストラリア合宿で「鉄棒の神様」と偶然に会って

 19年は両肩の痛みに悩まされ、08年北京五輪から連続していた日本代表の座を逃した。硬くなった筋肉をはがす「ハイドロリリース」という生理食塩水の注射を通算で100本以上打ったと言い、19年を漢字一文字で表すと? という問いに、「痛」という字を選ぶほどだった。6種目の練習をすると痛みが悪化して満足な練習ができなくなる。19年はその繰り返しだった。

 こうして迎えた20年。東京五輪の選考会が2カ月後に迫ってきた2月6日、オーストラリア・ブリスベンでの合宿中に、運命的な出来事があった。12年ロンドン五輪をはじめ、世界大会でこれまでに鉄棒の金メダルを4個獲得している「鉄棒の神様」ことエプケ・ゾンダーランド(34=オランダ)が、内村の合宿先の体操クラブにやってきたのだ。

「その頃の僕は、鉄棒に絞るのが良いか、6種やらないとダメか、気持ちが揺れている時でした。その時にたまたまゾンダーランドがジムに来て、僕も出る予定の試技会に出たのです」

 ゾンダーランドと言えば、体操界では知らない人がいない鉄棒のスペシャリストだ。ダイナミックな離れ技が持ち味で、彼が出てくると大げさではなく会場全体が沸き上がる。

 特に、12年ロンドン五輪で見せた3連続の離れ技(カッシーナ+コバチ+コールマン)の衝撃は今も語りぐさで、13、14年世界選手権を合わせて3年連続で種目別鉄棒の金メダルを獲得している。15年8月の練習中に脳震とうを起こした影響が残ったため、リオ五輪は7位に終わったが、その後見事に復活した。

内村にとって団体総合・個人総合・鉄棒と一大会自己最多の3つの金メダルを獲った2015年グラスゴー世界選手権は思い出深い大会だろう。こちらはそのときの団体メンバー(撮影:矢内由美子)
内村にとって団体総合・個人総合・鉄棒と一大会自己最多の3つの金メダルを獲った2015年グラスゴー世界選手権は思い出深い大会だろう。こちらはそのときの団体メンバー(撮影:矢内由美子)

■ゾンダーランドと偶然会い、「運命的なものを感じました」

「ちょっと運命的なものを感じました。やっぱりそういう(鉄棒に専念すべきという)ことなのか、とはちょっと思ったんですよ」

 内村はそう切り出し、ゾンダーランドとのこれまでの“対戦”を詳細に説明した。

「僕は、種目別鉄棒の決勝でゾンダーランド選手に勝ったことが一度もないんです。僕が優勝した15年の世界選手権は、確かゾンダーランド選手が予選落ちしていた。だから僕が優勝できたという気持ちなんです。やはり、鉄棒といえばゾンダーランド。世界中が知っています」

 オーストラリアでの試技会は、ゾンダーランドの鉄棒から始まった。演技は完璧だった。すると、ジム内の雰囲気が一変した。

「空気がピリッとして、そこから僕も失敗できないという感覚になりました。すごく良い刺激をもらえた試技会でしたし、運命的なものを感じました。あの時にゾンダーランドと一緒に試技会をしたというのも、ほんのちょっとではありますが、鉄棒に絞ったという理由としてあったと思います」

 内村によると、その試技会でも鉄棒の点数ではゾンダーランドに負けていたという。

「だから僕はいまだに勝ったことないんですよね。でも、勝ち負けじゃありません。僕らはお互いに鉄棒が得意で、お互いが世界を沸かすような演技をできる。鉄棒は東京五輪の種目別決勝の最後の最後なので、そこで団体決勝や個人総合決勝や、他の種目別決勝を上回るような、会場がドカンと沸くような演技を2人でできればいいなと、思っています」

ゾンダーランドと内村航平の世界大会での種目別鉄棒の成績比較(画像制作:矢内由美子)
ゾンダーランドと内村航平の世界大会での種目別鉄棒の成績比較(画像制作:矢内由美子)

■「負けず嫌い。世界で一番を目指せる方向に舵を切った方が良い」

 鉄棒に専念することを決めた最大の理由はもちろん肩の痛みという身体的な問題だが、もうひとつ、世界で勝ちたいという気持ちの部分も大きかった。 

「今まで僕は、結果はついてくるものと言ってきましたが、アスリートはやっぱり負けず嫌いなんです。やっている以上は世界で一番になりたいという気持ちは当然ある。世界で一番を獲りたいという気持ちに支えられている」と内村は言う。

 実はこの理由の背景にもゾンダーランドがいる。内村が世界大会で最後に獲得したメダルは18年世界選手権の種目別銀メダル。優勝はゾンダーランドだった。

「難度を上げればゾンダーランドにも手が届くという手応えを感じていたので、それなら世界で一番を目指せる方に舵を切った方が良いと思いました」

日本の体操界で初のプロ選手となって半年が過ぎた2017年夏の内村航平。体操選手のステータスを上げていった(撮影:矢内由美子)
日本の体操界で初のプロ選手となって半年が過ぎた2017年夏の内村航平。体操選手のステータスを上げていった(撮影:矢内由美子)

■「僕は、絶対に東京五輪があると信じています」

 鉄棒に絞ると決めてからひと月ほどたった3月24日、東京五輪の1年延期が決まった。そのときの心境は複雑だった。

「延期になった時は、やっぱりなという感じでした。でも、それからなかなか練習に身が入らない時期があって、予想はしていたものの、喪失感は大きかったです」

 しかし、鉄棒に専念することで肩の痛みに悩まされなくなった今、内村はすっかり意欲を取り戻している。

「五輪は体操をする場というより、世界に向けて演技で自分のメッセージを表現する場所です。通常なら4年に1回が初めて5年になり、なおかつ自国開催。東京五輪は特別が重なるので、意義は掛け算するように大きくなります。さらに、新型コロナウイルスに人類が打ち勝ったという証しにもなる。今は、アスリートも応援している人もどうなることやらと思っているでしょうし、世界の人々が手を取り合う中で五輪があるのだと思います。僕は、絶対に東京五輪があると信じています。どういう状況であれ、自分を信じて頑張るだけです」

 1年後の8月3日。五輪の舞台に立つ自分の姿を内村は信じている。

(↓東京五輪の体操競技・個人枠獲得の方法は? 内村航平とともに鉄棒での東京五輪出場を目指す宮地秀享が解説)

==============

【連載 365日後の覇者たち】1年後に延期された「東京2020オリンピック」。新型コロナウイルスによって数々の大会がなくなり、練習環境にも苦労するアスリートたちだが、その目は毅然と前を見つめている。この連載は、21年夏に行われる東京五輪の競技日程に合わせて、毎日1人の選手にフォーカスし、365日後の覇者を目指す戦士たちへエールを送る企画。7月21日から8月8日まで19人を取り上げる。