平昌五輪のスピードスケート女子チームパシュートで、圧倒的な力を示して頂点に輝いた日本。メンバーの1人である菊池彩花が金メダルを手にして涙と笑顔を浮かべた瞬間は、菊池の所属である富士急行スケート部が、長年の悲願を成就した瞬間でもあった。

 1968年の創部から50年目にして打ち立てられた金字塔。1984年サラエボ五輪で、橋本聖子氏(現日本スケート連盟会長)が同社所属選手として初めて五輪出場を果たしてから、五輪10大会目に成し遂げた快挙。歓喜を生んだ努力の歴史に触れるべく、3月のある日、山梨県に本拠を構える富士急スケート部に長田照正顧問を訪ねた。

 橋本聖子氏、岡崎朋美氏を五輪メダリストに育て上げ、菊池彩花をスカウトした長田顧問は、富士急スケート部の第1号選手でもある。富士急という企業の尽力、そして長田顧問の情熱は、雄大な富士山に見守られるかのように、春の日差しの中に溶け込んでいた。(敬称略)

富士急ハイランドへ、長田照正顧問を訪ねた(撮影:矢内由美子)
富士急ハイランドへ、長田照正顧問を訪ねた(撮影:矢内由美子)

 

■部員たった1人からのスタート

「私が富士急に入社したのは、山梨県の吉田高校を卒業した1968年(昭和43年)の4月です。ちょうど会社がスピードスケート部をつくった年で、私はスケート部の選手第1号。大学進学も考えていた中で、縁があっての入社でした。ただ、監督はいましたが選手は私1人でしたから、練習は高校のころのメニューを自分でアレンジして鍛えるという毎日ですよ。ゼロからのスタートでした」

 吉田高校時代の長田は、スケート長距離選手として活躍し、インターハイでは1、2年生のときに男子5000mで2年連続2位という成績を残していた。

 長田の少年時代の日本は、高度経済成長のまっただ中にあった。富士山麓の溶岩地帯を切り開いて開発を進めていった富士急行は、1961年(昭和36年)に総工費8億円をかけて全面パイピングリンクの「富士五湖国際スケートセンター」をつくった。現在の富士急ハイランドの大型アトラクションの真下に当たる場所だ。

 トラックの幅は通常のリンクの2倍にあたる20mもあった。ときは一億総中流の時代。冬になると巨大なリンクを訪れるレジャー客は引きも切らず、最盛期には1日に4万5000人がスケートをしに訪れた。リンクは人で埋まり、建物の上から見ると真っ黒だった。

 長田が入社した翌年の1969年には中央道が開通した。東京から客を乗せたバスが次々と到着し、営業は深夜に及んだ。午後3時まで仕事をし、夕刻からトレーニングをしていた長田も、あふれかえる客の整理のために駆り出された。

 スケートは元々、中国に住む旧満州鉄道の社員や家族の冬の娯楽だった。戦後、高学歴のエリートたちがスケート文化を日本に持ち帰ったことで、スケートは大いに人気を博した。また、1964年(昭和39年)10月に東京五輪が開催され、企業スポーツの機運もさらに高まった。

「私自身もオリンピックを目指していました。1人で富士山を駆け上がったり、密林を走ったり、タイヤを引いたり。アナログ的な練習ばかりですが、必死にやりました」

 しかし、国際大会の代表入りは遠かった。27歳まで現役を続けたが、最高成績は実業団選手権や国体で優勝。五輪の夢は果たせぬまま、1977年3月に現役生活を終えた。

 その後は仕事に専念するつもりでいたが、社命でスケート部のコーチになり、4年後の1981年には監督に就任した。長田1人だった部員は10年の歳月を経て5人、6人と増えており、女子選手も混ざるようになっていた。

■カーブも直線もうまくなった橋本聖子

 黎明期から徐々に規模を拡大しつつ、そろそろ五輪選手を出したいというタイミングで入社したのが、北海道出身の橋本聖子だった。

「橋本が入ったときは、選手は男子のみで、女子は彼女1人でしたね。橋本は中学時代から有名選手だったのですが、私はあまり彼女のことを知らなかったんです。女子1人で男子に混じって練習することになったので、故障してはいけないと、高校時代の練習メニューを聞いたこともありましたが、変わったことは何もしていませんでした。ウェートトレーニングもしていなかったので、体はふくよかでしたし、ローラースケートには乗ったことがないと言っていました」

 駒大苫小牧高校時代の橋本は、好成績を収める一方で、呼吸器系の病気を患ったことがあり、富士急入社時の肺活量は2000CC程度と、一般人より少ないほどだった。富士急を選んだのは標高が高く、トレーニングをする環境が抜群に良いということが理由。入社後も呼吸器の病気で入院することがあったが、次第に体力が増し、病気は治まっていった。

「入ってきたころの橋本は、無口で木訥とした印象でした。必要のあること以外はしゃべらない。聞いたことだけ的確に返事をする。そこにいてもわからないくらい存在感の薄い子でした。スケートに関しても、技術はなくて力任せ。持って生まれたパワーだけで滑っていましたね。ただ、パワーは本当に凄かった。技術を磨けばいずれ五輪のメダルを取れるのではと思いました」

 入社1年目にして初出場した1984年サラエボ五輪。並外れたパワーを武器に五輪の舞台に立った橋本だったが、スケーティング技術の不足は否めず、出場した4種目すべて2ケタ順位に終わった。

 それでも、サラエボで味わった五輪の魅力は彼女を虜にした。

「入社してきたときは『五輪は一度で良いです』と話していたのですが、サラエボを終えたあとに改めてきくと、『もっと出たくなりました』という返事でした」

 橋本の心にスイッチが入り、目の色が変わった。その後は長田の的確な技術指導と猛烈な練習でみるみる成長していった。

「橋本があの小さな身体(身長158cm)でなぜあれほど強かったのか? 頑張ったからですよ。スプリント力も持久力もなかったけど、とにかく頑張った。カルガリー五輪のころにはメダルを狙えるレベルになっていました」

 1988年カルガリー五輪では、500mから5000mまでの全5種目に出場。全種目で日本新記録を更新して8位以内の入賞を果たした。そして、1992年アルベールビル五輪では1500mで銅メダルを獲得した。

「アルベールビル五輪のときは、メダルを取れなきゃ私のせいだと思っていました。銅メダルを獲った1500mも強かったのですが、特に1000mは一番強い種目で、絶対にメダルを取ると思っていましたね。周囲からは種目を絞れと言われたものですが、本人は全種目のメダルを目指していましたし、それができると信じていました」

 ただ、1000mに関しては不運があった。橋本は4度出た冬季五輪ですべてアウトスタートだったのだ。スタートしてすぐにカーブのあるこの距離は、インスタートが断然有利だ。橋本にあと少しのツキがあれば、頂点に輝くチャンスはもっと大きかった。長田の胸には今もその思いが残っている。

「橋本は直線もカーブも両方隔たりのない技術を持っていました。彼女は世界スプリント選手権でも世界オールラウンド選手権でも複数回のメダルを獲っています。こういう選手は世界にもいません」

富士急スケート部には今も岡崎朋美のポスターがある(撮影:矢内由美子)
富士急スケート部には今も岡崎朋美のポスターがある(撮影:矢内由美子)

■“直線番長”岡崎朋美

 橋本が全盛期を迎えていた1990年(平成2年)に入社してきたのが、岡崎朋美だった。きっかけは1988年12月に北海道釧路市で全日本スプリント選手権。レース前日の公式練習のために準備をしていると、前の時間帯に滑っていた高校生の中に、ひときわ輝いて見えた「抜群の太もも」があった。

「最初は男子だと思ったんですよ。薄暗い照明の下で、黒いワンピースでしたから。それが岡崎でした。高校の監督が『橋本選手の後ろにつかせてもらっていいですか』と言ってきたので、『いいですよ』と。ひと目見て、素晴らしい太ももだと思いましたね」

 あこがれの大選手の後ろについて滑った岡崎は、橋本から「自己ベストは何秒?」と訊かれて舞い上がってしまい、実際のタイムより5秒も早い「38秒××です」と言ったそうだ。それは橋本が持っていた日本記録より早かった。長田はクスッと笑った。

「岡崎を富士急に誘うために高校の先生に話をしたのですが、最初は『スケートは高校までで十分』と言っていたらしいんです。とはいえ、将来の明確な目標があったわけではなく、卒業したらどこかに就職するという漠然としたものしかなかった。1年掛けてご両親とも話し、とりあえず4年やってみようかということで、うちに来ました」

 

 富士急に入った岡崎は、猛烈なトレーニングをする橋本の背中を見つめながら、歯を食いしばって練習をしていった。ついていけずに涙した日は数知れない。だが、それでも走り続けた。

 入社2年目の冬に行われた1992年2月のアルベールビル五輪。岡崎は会社のメンバーと一緒に橋本の応援をするために現地に行った。目の前を激走する「聖子先輩」がまぶしかった。銅メダルは何よりも輝いて見えた。

「岡崎は直線番長ですよ。カーブは下手でしたが、直線が速かった。岡崎は橋本と数年間一緒に練習して、この人がこれだけ練習するのだから、自分もやらないと勝てるわけがないと考えたんですね。橋本の姿を見て、ひいひい泣きながら、練習は嘘をつかないと感じ取って成長していきました」

 入社4年目、1994年リレハンメル五輪に初出場を果たして500mで14位。入社時に「とりあえず4年」と話していた気持ちが五輪を経験したことで変化したのは、橋本と同じだった。

「一度あの舞台に立ったらもっとやってみたくなりました」(岡崎)

 そこから岡崎はぐんぐん伸びだ。ライバルチームである三協精機(現日本電産サンキョー)の島崎京子と切磋琢磨しながら1998年長野五輪を目指した。

 この当時、世界のスケート界に起きていたのが「スラップスケート革命」だった。以前のスケートはブレードが靴底に固定されていたが、スラップスケートはブレードにバネがついており、滑るときにかかと部分が離れる仕組みになっている。

 元々はオランダで行われている200kmのスケートマラソンなどで長距離を滑るときに、足首への負担を軽減させる目的で発明されたものだった。日本勢が初めてそれを見たのは1996年夏のカルガリー合宿。オランダの選手がそれを履いて滑っていたのだが、まず、音が全然違った。氷を蹴るたびに「ピシャ、ピシャ」と、叩くような音がした。「スラップ」の語原である。

 岡崎がスラップスケートを入手したのは長野五輪のわずか1年前だった。他の日本勢もほぼ同じだった。そして、初めて履いて滑ったのは1997年3月のエムウエーブ合宿。岡崎はまずまずのタイムを出した。

「スラップスケートの出現で男子も女子も世界の勢力図が変わりましたね。ルメイ・ドーン(カナダ)はスラップにしてから4カ月で自己ベストを39秒5から37秒5まで縮めて、ボニー・ブレア(米国)が持っていた世界記録を1秒も更新した。それが1997年夏のことです。岡崎はノーマルスケートなら世界記録を持っていたボニー・ブレア(米国)の次に速かったですし、ブレアはもう引退していたので、長野五輪はいけると思ったのですが、状況が変わりました」

 長野五輪シーズンはW杯で世界を転戦しながら、レース毎にブレードの位置を少しずつずらして最適な位置を定めていった。ブレードの調整は監督の仕事である。海外では、はんだ付けをしてもらうために自動車修理工場に駆け込むなど奔走しながら、どうにか本番に間に合わせることに成功した。

「長野のころはスラップスケートで悲喜こもごもでした。喜んだ選手もいたし、頭をとんかちで殴られた選手もいた。岡崎はそのどちらでもなかったですね」

 こうして岡崎は長野五輪で500m銅メダルを獲得した。富士急行スケート部にとっては2つ目のメダルだった。

 岡崎はその後も、富士急の後輩である三宮恵利子と競い合いながらスプリント力を追求していった。

 長野五輪後には腰を痛めて椎間板ヘルニアの手術をしたが、そこから見事に復活。2002年ソルトレークシティー五輪では6位にとどまったが、2006年トリノ五輪、2010年バンクーバー五輪と、5大会連続出場を果たした。橋本は冬季大会4度、夏季大会3度の計7度の五輪出場を記録しているが、冬季だけなら岡崎が日本女子スケート陣最多記録だ。

「岡崎が長野に続いてメダルを目指せる状況だったのが2006年トリノ五輪でした。ヘルニアの手術からも時間がたっていて、心身共に充実していましたね。1本目は不完全な滑りでありながら3位でしたから、これは銀メダル以上はいけるな、と思いましたよ。けれども、2本目で下位の選手に抜かれて4位でした。バンクーバー五輪は道具で失敗して2ケタ順位でしたが、あれは私が悪かった。スケートが古くなっていて、直そうとしたのですが最後まで合うものが手に入らなかったんです」

■オランダ人のようだった菊池彩花

2016年5月、富士急で行われたナショナルチーム合宿でバランスを取る菊池彩花(撮影:矢内由美子)
2016年5月、富士急で行われたナショナルチーム合宿でバランスを取る菊池彩花(撮影:矢内由美子)

 長田が「自分の指導で育て上げよう」と菊池彩花に声を掛けたのは、2004年12月のことだった。それは15年ほど前に、岡崎をスカウトしたときと似たような状況だった。

 長田は岡崎を連れて「浅間選抜」という大会のために長野県の浅間温泉国際スケートセンター(2011年閉場)に行ったときのことだった。ここは標高1000mで水質も良く、記録製造リンクと呼ばれていた。

「夜の練習で漠然とリンクを見ていたら、目に飛び込んできたのが菊池でした。すごく身体が大きくて、背が高くて、オランダ人の滑りに似ていると思いましたね。長距離的な、氷を上から下に押す滑りをしていたんです。最初は、あれ、外国人かな、と思うほどで、日本人離れしていましたよ。4、5年掛けたらどうにかなりそうだと思いました」

 

 練習を終えてリンクから上がってきた菊池に声を掛けた。高校2年生。進路は決まっていないという。後日、高校の監督がいたので、もう一度話をした。

「菊池の場合、どこが良かったかというと、黙々と1人で滑っていたところです。最初はヒザも腰も高くて、すべてダメだったんだけど、いろいろ修正できれば大丈夫だと思いました。菊池も岡崎と同様に実績はなかったんですけどね」

 こうして菊池が入社したのが2006年だった。中距離が専門の菊池は長田&岡崎とは別のグループで練習することになった。

 それから10年あまり。菊池は入社7年目にして2014年ソチ五輪に出場すると、ソチ五輪後は日本スケート連盟が発足させたナショナルチームに入って練習を重ねた。2016年夏には氷上トレーニング中の転倒・接触で、右足に選手生命が危ぶまれるほどの大怪我を負ったが、そこから見事に復活した。

 平昌五輪に出た菊池と押切美沙紀は、富士急スケート部にとって10大会連続で送り出した五輪代表選手である。押切は平昌五輪こそ個人種目のみの出場だったが、ソチ五輪も含めて長年、チームパシュートの一員としても活躍していた。平昌五輪では菊池が悲願の金メダルを手にしたが、押切も苦しい時期の日本チームを支えた1人である。

「菊池はナショナルチームに入る前は、2008年に富士急の監督に就任した黒岩彰監督の指導を受けて、力を蓄えていました。そして、ナショナルチームに入って実力のある選手と一緒にトレーニングをし、良い指導者とも出会い、持っているものが開花したんですよ。能力は元々高かったです」

 長田は黒岩彰監督が就任した2008年から富士急の総監督になり、2010年以降は顧問としてスケート部と関わっている。

 長田は平昌五輪のレースを日本から見守った。テレビ画面に映し出される日本女子チームパシュートのレースは、まったく危なげがなかった。思えば、2010年バンクーバー五輪で銀メダルを手にした日本女子チームの中心メンバーだった田畑真紀も、以前は富士急で汗を流した選手だった。

「富士急にとって10大会連続の五輪代表輩出となった平昌五輪で金メダルを獲得したのは、本当にうれしいことでした。ハラハラしたか? しませんでしたよ。オランダは絶対に最後に落ちると思っていましたからね。途中でリードされるのも予想通りでした。創部から50年、そして五輪10大会目での金メダルとは、なんという巡り合わせでしょうね」

ナショナル合宿に参加した富士急3人娘(左から菊池彩花、松岡芙蓉、押切美沙紀)(撮影:矢内由美子)
ナショナル合宿に参加した富士急3人娘(左から菊池彩花、松岡芙蓉、押切美沙紀)(撮影:矢内由美子)

■企業のサポートがあってこそ

 レジャーとしてブームを呼んだ時代。トップスケーターを育てて世界と戦った時代。ソチ五輪でメダルゼロに終わったどん底と、平昌の栄光。情熱と冷静さを併せ持った目線で流れゆく50年を見つめてきた長田には、今、新たな願いがある。

「チームパシュートの金メダルに象徴されるように、ひとつは日本スケート連盟がナショナルチームを編成したことでこういう結果が生まれたという側面があります。これは素晴らしい前進ですよ。でももう一つ、企業がサポートしてきた今までの時代があります。富士急に限らず、いろんな企業のサポートです。これを忘れてはいけないと思うんですよ」

 オリンピックでの活躍でスピードスケートが注目を集めている今こそ、これを機にスケート界が盛り上がり、競技人口が増えてくれることを期待している。

富士山に抱かれて50年(撮影:矢内由美子)
富士山に抱かれて50年(撮影:矢内由美子)
2016年、富士急で行なわれたナショナルチーム合宿(撮影:矢内由美子)
2016年、富士急で行なわれたナショナルチーム合宿(撮影:矢内由美子)