【フィギュアスケート】北大生 鈴木潤の飽くなき挑戦

2016年全日本選手権フリースケーティングの鈴木潤(写真:アフロスポーツ)

■旧帝大で学ぶフィギュアスケーター

2016年12月、大阪府門真市。フィギュアスケートの日本一を決める全日本選手権男子シングルの舞台に、鈴木潤(北海道大)は立っていた。

北海道大学工学部応用マテリアル工学コース3年に在籍する旧帝大生スケーターの鈴木が全日本選手権に出場するのは、3年連続4度目だ。授業や実験のスケジュールがぎっしり詰まっている国立大学の理系で学びながら、国内最高峰の試合に出るのは容易ではない。それだけに、鈴木が全日本選手権の常連メンバーとなっていることは称賛に値する。

最初に出たのは札幌南高校1年生だった2010年で、そのときは23位だった。受験勉強によるブランクを経て復帰した2014年は14位、2015年は13位という成績。今回は来季の強化指定を受けることができるようにと、上位進出を目指しての出場だった。

そのための準備はしっかりとやってきた。1994年世界選手権女子シングルチャンピオンであり、現在米ミシガン州デトロイトで指導者として活躍している佐藤有香さんのもとへ大学の休みを利用して行き、2015―2016シーズンにはSPのプログラムを、そして今シーズンはフリースケーティングの振り付けをしてもらっていた。

全日本選手権のSPでは、宇野昌磨や無良崇人と同じ第4グループで登場した。米国人ギタリスト、スティーヴ・スティーヴンスによる『Flamenco a gogo/Dementia』の曲に合わせ、情感をこめて滑った。冒頭のトリプルアクセルでは片手をつきながらもこらえ、続く3回転フリップ+3回転トゥループ、最後の3回転ルッツもしっかり着氷した。音の取り方も素晴らしく、得点は66.17点。スピンやステップの評価も高かった。

「自己ベストの点数ではなかったですが、自分としてはベストのSPでした」

8位ということでフリーの最終滑走グループ入りは惜しくも逃したが、2年間の積み重ねが実り、非常にこなれた演技となっていた。多くの拍手を受け、キス&クライでは納得の笑みも見えた。

■羽生と同い年“黄金世代”

幼稚園のころ、大会でぬいぐるみをプレゼントされる(鈴木潤氏提供)
幼稚園のころ、大会でぬいぐるみをプレゼントされる(鈴木潤氏提供)

1994年5月8日、仙台市生まれ。羽生結弦や田中刑事、日野龍樹とは同学年だ。

4つ上の姉の影響でフィギュアスケートを始めたのは4歳のころ。滑り始めるとすぐにスケートの虜になった。

「幼稚園のころから小学生に混じって大会に出場していました。歓声を浴びたり、花束やぬいぐるみなどのプレゼントをもらったりすることがうれしくて、大会に出るのがすごく楽しかった。純粋に、見てもらえるということに喜びを感じていました」

仙台市内の別のリンクに通っていた羽生とは幼稚園のころから市民大会で競い合うライバル同士だった。

先に全日本ノービス選手権Bに出たのは鈴木。小3で初出場すると、2学年上の木原龍一(ペアでソチ五輪出場)に続いて2位になった。1年後は木原がノービス選手権Aに上がったことで「次は自分が優勝だ」と意気込んで大会に出場。すると今度は、この年が初出場だった羽生が優勝し、鈴木は2年連続で2位になった。羽生は自分がまだマスターしていなかったダブルアクセルも跳んでいた。

初めて、ライバル意識というものが芽生えた。

「スケートをやっていて初めて悔しい気持ちになって、それまで練習嫌いだったのに急にガンガン練習したんです。そうしたら、腰を怪我しました」

小4の残り半年間は腰椎分離症でスケートから離れた。するとその間に田中と日野が台頭。すっかり水を開けられ、小5以降は追いつかなくなった。

それでも、持ち前の集中力で中1のときの全国中学大会(2008年2月)では3位になり、優勝の羽生、2位の日野とともに表彰台に上がるところまで差を詰めた。

だが、「ジャンプの内容としては彼らの方が高難度。たまたま失敗して、僕が成功したから入ったみたいなパターンで、棚ぼたみたいな成績でした」(鈴木)

結果は別として、冷静に見ればジャンプでは負けている。そういった自覚を胸に謙虚な姿勢で3人に追いつこうと練習に打ち込んでいた2009年1月、残念なことが起きた。ホームリンクである「勝山スケートリンク」が閉鎖することになったのだ。

当時、中2の冬。途方に暮れはしたものの、すでにスケート中心の生活を送っていた鈴木に辞めるという気持ちは一切なく、父が単身赴任していた札幌市に家族そろって引っ越し、札幌でスケートを続けようと決意するのに時間は掛からなかった。

2008年2月の全中表彰式。1位:羽生、2位:日野、3位:鈴木(鈴木潤氏提供)
2008年2月の全中表彰式。1位:羽生、2位:日野、3位:鈴木(鈴木潤氏提供)

■オリンピックを開催した都市なのに…

札幌は1972年冬季五輪を開催したオリンピック都市であり、ウインタースポーツが盛んというイメージがある。仙台から引っ越すのを決めたときは、当然ながら練習環境は素晴らしいのだろうという期待があった。

ところが、札幌のフィギュアスケート環境は意に反して非常に厳しいものだった。市内には通年で使える室内リンクが2つ(月寒、星置)あるが、所属クラブのホームリンクとして使えるリンクがない。貸し切り時間を確保しようとしても、アイスホッケーのチームが多く、なかなか練習時間を取ることができない。冬場には真駒内と美香保の室内リンクにも氷が張られるが、こちらも利用制限がある。

アジア初の冬季五輪を開催し、現在は2026年冬季オリンピック・パラリンピックを招致しているのみならず、この2月には冬季アジア大会を開催する人口190万人の大都市・札幌。ウインタースポーツの街というイメージからはかけ離れた状況に、鈴木は愕然とした。

けれども引き返すことはできない。中3からは札幌から車で片道1時間の苫小牧市や安平町、あるいは片道2時間の泊村のリンクまで通う日々が始まった。家族の献身的な協力によってどうにかスケート選手としての練習を続けることはできたが、現実は厳しいものだった。

「勝山にいた時はホームリンクだったので、毎週月水金と土日は貸し切りの時間が決まっていて、ほぼ毎日練習できましたし、1週間の生活リズムも決まっていました。ところが札幌では、週5回練習できる週があったかと思えば翌週は2回しか練習できない、あるいは時間帯もバラバラで曜日もランダムという状況。リズムを作るのが難しかったです」

勉強も好きだった鈴木は、高校は難関の札幌南を受験した。文武両道で知られる同校には、個性豊かで意識の高い生徒がそろっており、学校自体にも部活を応援するムードがある。同級生とも切磋琢磨できるこの環境が、負けず嫌いな鈴木を後押しした。

すると、全日本ジュニア選手権で7位に入り、全日本選手権へ推薦枠で出場し、日本スケート連盟の強化指定選手になった。子供の頃から憧れていた「ジャパンジャンパー」を支給され、気持ちは高揚した。

全日本選手権の雰囲気にも魅了され、「あそこに立った時、自分はこのためにやっているんだと思った」

ヒリヒリするような緊迫感の中、観衆の熱いまなざしを浴びながら演技することに、言いようのない喜びを感じた。高2のときは強化指定選手としてジュニアグランプリシリーズにも出場し、海外遠征でも大きな刺激を受けた。

■文武両道でこそ

笑顔がさわやかな文武両道スケーター(撮影:矢内由美子)
笑顔がさわやかな文武両道スケーター(撮影:矢内由美子)

だが、ここで2度目の決断を迫られるタイミングが訪れた。大学進学だ。生活の中心はスケートだったが、鈴木の胸の中には、文武両道であってこそのスケート選手だという考えがあった。

「強化選手は大学入ってからまた戻ることもできるけど、大学受験はこのタイミングしかないと思った」と、受験勉強に専念することを決めた。

ところが受験に失敗し、浪人生活を余儀なくされてしまう。1年でリンクに戻るはずが、ブランクは2年に。その間、2014年2月にはソチ五輪で羽生が金メダルを獲得した。その姿はまばゆかった。

文武両道を実践しながらオリンピックを目指したいというビジョンのあった鈴木は、「同期の選手がどんどん上手くなっていき、結弦は五輪で金メダル。すごく歯がゆい気持ちになった」というが、自分が決めた道から目を背けることはなかった。

「北大に入って、またスケートをしたい」

自分は自分のやり方でスケートを極めようと思い、2度目の受験でも北大一本に懸けた。浪人時代は朝の9時から夜の9時まで予備校で受験勉強。その結果、2014年春、工学部応用理工系学科に合格した。

鈴木が興味を持っているのは化学系で、現在は応用理工系学科応用マテリアルを専攻中。3月からは研究室に振り分けられることになっている。

学業は学年が進むにつれて高度なものになり、スケジュールもタイトになる。大会とレポート提出がかぶると超多忙で、水曜日に実験が終わったら、木金でレポートとプレゼン用の資料を仕上げ、土日に大会に出るというスケジュールをこなしてきた。

フィギュアスケーターは陸上で筋トレをガンガンやるという方法ではなく、氷上練習で筋力をつけていくのが一般的だが、鈴木の場合は氷上練習だけでは時間的にどうしても足りない。リンクに乗っている時間はトップ選手と比べるとおそらく半分程度。足りない分は大学のトレーニング施設に行って補っている。

「でもやっぱり出る以上は負けたくない。練習の仕方を工夫したり、その日その日の練習の目的を明確にして、フィードバックを怠らないようにすることで氷上練習の少なさを補っています」

3年生になった今シーズンは、全日本選手権上位という高い目標を掲げて練習に取り組んできたが、悪いことに昨夏、右腰を痛め、腰椎分離症と診断された。休むのが一番のケガではあるが、新プログラムに懸ける思いが強かったが故に、練習続行を決意した。

だましだましでコンディションをつくりなが全日本選手権を乗りきった後は、1月のインカレに向けて練習を続けていたが、年明けに痛みが悪化。右腰の分離症が再発していた。断腸の思いでインカレと国体を回避し、現在は大学4年生となる来シーズンを見据えてケガの完治を優先しながら治療とリハビリを行なっている。

「腰を痛めたのは、少々体が痛いときでも、貴重な貸し切りの時間を逃すわけにはいかないということで、ときにオーバーワークになってしまったのが原因かもしれない」と鈴木は唇を噛む。しかし、弱音を吐くことはない。

「内容はともかく、今シーズンは全日本まで滑りきることができたので後悔はありません。これも乗り越える壁であって、たくさん学ぶこともありましたし、また来シーズンに向けての成長過程なのかなと思っています」と、前を向いている。

■「スケート人生の集大成となるプログラム」

札幌市内でインタビューに応じた鈴木潤(撮影:矢内由美子)
札幌市内でインタビューに応じた鈴木潤(撮影:矢内由美子)

デトロイトで今季のフリーのプログラム作りを行なったのは昨年の3月だった。スケートの練習がないときは家庭教師をやって費用の足しにした。

フリースケーティングの振り付けを佐藤さんに頼む際、鈴木は、「スケート人生の集大成のようなイメージで」とリクエストを出した。こうして選ばれた曲が映画『ニュー・シネマ・パラダイス』。映画好きの主人公が幼少期から大人になるまでの物語を描きながら、映画への愛やさまざまな出会いをテーマにした映画である。

「映画が、主人公の映画に対する思いを表現しているように、僕にとってのスケートへの愛を自分のスケートで表現できたらいいという思いで滑っています。スケート人生の集大成として、ピッタリの曲です」

デトロイト滞在中の最初の1週間でプログラムをつくり、2週目に手直しをし、3週目に確認するというスケジュールの中、最後の1週間は同じデトロイトのリンクに所属しているジェレミー・アボット(ソチ五輪団体銅メダル)の指導を受けるチャンスに恵まれた。

「ただ表現を伝えたいという気持ちだけじゃなく、伝えるための技術を学び、観客への魅せ方をより深く意識できるようになったのはジェレミーのお陰だと思います」

全日本選手権、フリーの演技。銀盤の中央に立った鈴木は、憂いを含んだ表情で一歩目を踏み出すと、丁寧に片足で円を描き始めた。幼い頃、リンクにいくといつも必ず最初に練習をしていたコンパルソリーの軌道だ。

演技の中盤にさしかかると、曲調が一変する。純真な気持ちでただただ楽しく滑っていた幼少期から、けがに苦しみ、ジャンプの習得に汗を流し、受験勉強との両立に立ち向かったティーンエイジャーの時期が描かれている。

山あり谷ありのスケート人生を描いたようなドラマのクライマックスはイーグル。何度突き放されようが、自分は間違いなくスケートが好きだ。試練に直面してきたからこそ気づけた心の深いところにある思いを、鈴木は存分に表現しようと奮闘した。

現実として、演技の出来映えに関しては、コンビネーションを予定していた冒頭で最初のトリプルアクセルを転倒してしまったことのしわ寄せもあり、以後、多くのジャンプで着氷が乱れてしまった。

それでも後半に3回転トゥループでコンビネーションをリカバリーするなど、終盤は体力の限りを尽くして演じ切った。コレオシークエンスでは雄大なイーグルで観衆を魅了した。

もちろん、フリーで111.37点、SP、フリーの合計177.54点で14位という結果には、悔いが残る。

「フリーではやりたいことがまったくできず、気づいたら終わっていた。これではプログラムに対して失礼。本当はもっと素晴らしいプログラムなのに、自分が扱いこなせていないことがすごく悔しかった」

フリーの演技終了後の鈴木は、寂しそうに肩を落としていた。

■「自分の求めるスケートをしたい」

4月には大学4年生になる。鈴木自身が言うように、「スケート人生も最後の方に差し掛かっている」のは間違いないだろう。

大学卒業後は大学院へ進学する予定で、いずれは企業の研究職に就きたいと考えている。そして、現在スケートに関しては、いつまで続けるのを悩んでいるところだ。そもそも、大学院での研究生活がフィギュアスケートとの両立が可能なのか読めない部分も少なくない。制約のある環境で練習しながら、肉体を維持向上させていけるのかという不安もある。

そんな中、今、言えるのは、全日本選手権終了後の決心として、「このままでは終われない。このプログラムを完成させないといけないという使命感のような思いが生まれた」ということだ。

少なくともあと1年は続けるスケート選手生活の目標としては、「結果ではなく、自分にしかできないスケートを追い求めていきたい。純粋に大会を楽しんでいた昔のように、1つ1つの試合を楽しみ、自分の求めるスケートをして、たくさんの人を魅了していきたい」という思いに帰着している。

「全日本のSPは、点数ではなく、自分の感触としてすごい手応えがありました。だからこそ、フリーでもこんなものじゃないぞということを見せたいんです。今までの中で一番、伝えたいものが明確に見えているプログラムだからです」

鈴木には、京大大学院生だった2006年12月の全日本選手権で4位になり、07年2月の四大陸選手権に出場した神崎範之さんという憧れの存在がいる。

受験勉強を終えてスケート選手生活を再開したときは、「スケートをやるのは4年まで。大学院では勉強に専心しよう」と決めていたが、続けてくうちに悟ったのは、フィギュアスケートには完成がないということだった。

「追い求めれば追い求めるほどまた違った自分に出会えるし、新たな自分を表現することができると思うんです」

鈴木潤、22歳。まっすぐに生きているからこそ突き当たる壁がある。だからこそ余計、自分の気持ちにまっすぐに生きたいという思いが膨らむ。

スケートへの情熱を燃やす日々は、簡単には終わらないはずだ。