誰もが憲法9条に対してクリーンハンドではない、ということ ~今後の熟議のために(下の3・完)

(写真:Yuriko Nakao/アフロ)

(下の2)編

6 日米安保体制を選択して集団的自衛権と無縁でいられるのか、という問題

7 9条と実態の乖離を固定化することが「立憲主義」に合致する態度なのか、という問題

安倍政権はなぜ、今回の集団的自衛権行使の解禁にあたって解釈変更ではなく、憲法改正手続きを踏まなかったのか。ハードルの高い道を避けて安易な方法で、憲法上の制約を解くのは立憲主義に反するのではないかー。こういった疑問の声は、行使容認論者である山崎拓・元自民党副総裁など改憲派からも、聞かれた。(*1) これに対し、安保法案に関する与党協議で中心的役割を果たしてきた高村正彦・自民党副総裁は、憲法改正について問われ、こう語っている。

高村正彦氏  現在でも機は熟していませんね。平和を愛することは大事だけれども、平和を愛するだけではなく、現実的に平和を守ること以上に、平和主義、たとえば、憲法9条にノーベル平和賞を獲らせようとか。平和主義を守ることに熱心な人達が多いです、日本は。それが本当に平和を守ることになっているのか。

出典:BSフジ・プライムニュース(2015年7月10日)

世界各国で国民投票の実態を調査し、個人の信条は「9条原理主義者」だというジャーナリストの今井一氏は、12年前の著書で、こうした解釈改憲派の本音を言い当て、今日の事態を見事に予測していた。

改正は容易くはできない。憲法改正の国民投票を行うための議員発議の要件となっている「衆参両院の総議員の三分の二以上」の賛同者を得るのはかなり難しいし、たとえそれを果たせたとしても国民投票で勝てるとは限らない。それに、こんなことを言い出して国民の反発を食らってしまうと閣僚の椅子が遠ざかる。つまり、国民投票による「明文改憲」は真っ当ではあるが、得策ではないということだ。それよりも憲法九条の文言には一切触れずに「解釈改憲」を進め、九条を骨抜きにするいろいろな法律を制定してしまえばいい。

出典:今井一「『憲法九条』国民投票」集英社新書、2003年

安保・自衛隊など時々に重ねられてきた解釈改憲を、改憲派のみならず護憲派と称する人たちまでもが、長らく「大人の知恵」だといって黙認してきたことが、現行九条下での集団的自衛権の行使容認という究極の解釈改憲を政府が断行する下地を作ったのだ。

出典:今井一「『解釈改憲=大人の知恵』という欺瞞」現代人文社、2015年、38頁
日本国憲法特集を掲げたAERA2015年9月28日号
日本国憲法特集を掲げたAERA2015年9月28日号

では、「護憲派」が多くを占めるとされる憲法学者は、いかにして9条と現実の乖離を容認してきたのか。「立憲主義」の歴史や理念に詳しい樋口陽一・東大名誉教授は、条文と現実の運用との緊張関係を作り出してきた歴史的意義を踏まえると、まだ全面的な「空洞化」には至っていないとする。また、長谷部恭男・早大教授は、立憲主義と安全保障上の現実に照らした帰結主義的論理から、「自衛のための実力の保持」を合憲とする立場だが、9条をあくまで「準則(rule)」ではなく「原理(principle)」に過ぎないものと理解している。

「解釈改憲」とは、それを批判する側から使われた呼び名である。そのことによって、最高規範であるはずの憲法の規範力が衰えてゆくことを警告しようとしたのは、もとより大切なことであった。しかし、解釈改憲によっておし進められる運用を「憲法の空洞化」としてとらえることは、実態を見誤ることにつながる。それはまた、なぜ条文そのものの改正要求が絶えることなく繰り返されてきたのか、その要求に応ずるのか拒否するのかがなぜ決定的なまでに重要なのかを、見失わせることになる。

憲法を受け身で受け入れた日本社会は、憲法が権力の行使にとって多かれ少なかれ邪魔になるという緊張関係をつくり出し、維持することによって、いわばその基本法を確認し直してきたといえるだろう。それこそが、「護憲」ということの意味であった。「護憲」を揶揄して、法典を護符(おまもり)のように奉ってきた、という非難の仕方がある。それは、単なる言いがかりでないとすれば、戦後史の一面しか見ない誤りといわなければならない。

出典:樋口陽一「いま、『憲法改正』をどう考えるか」岩波書店、2013年、72~73頁

憲法九条は、軍の存在の正当性をあらかじめ剥奪し、政治への影響力を減殺するとともに、政治のプロセスが軍事問題について誤った選択をしないよう、選択肢をあらかじめ制限する狙いを持っている。

出典:長谷部恭男「憲法とは何か」岩波書店、2006年、12頁

このように「立憲主義」を深く研究し、啓蒙してきた(自衛隊については立場がやや異なる)2人の憲法学者はともに、「9条の文理と現実の乖離」と「立憲主義」を矛盾のないものと理解し、9条を変えるべきでないとの立場を貫いている。

一方、9条と現実の乖離の固定化を容認する護憲派に対して「立憲民主主義」の原理から批判しているのが、法哲学者の井上達夫・東大教授である。井上教授は、「正しい安全保障体制」が何かは通常の民主的政治過程で争われる政策課題であるとの考えから「九条削除」論を提起してきた。同様に、解釈改憲を「大人の知恵」として容認し、9条の本旨に向き合ってこなかった護憲派の欺瞞を突いてきた今井氏は、立憲主義を立て直すためには、国民が戦争や軍隊について徹底的に議論して国民投票で結論を出すしかないと主張している。

彼らと私との根本的な対立は、政治的立場の違いよりも、憲法観の違いにある。すなわち、政治的に対立する自己と他者との間の「公正な政争ルール」として憲法を位置づける立憲民主主義の原理が、自己の政治目的を追求する手段として憲法とその解釈を利用すること、憲法を「政争の具」にすることに対して課す制約を真剣に受け止め尊重するか否かにある。私は二つのタイプの護憲派(*)が、基本的人権保障を重視する立場は私と共有しながらも、こと安全保障問題になると、いずれも憲法を「政争の具」とすることにより、「公正な政争のルール」としての憲法への日本国民の敬意と信頼を腐食させていると考える。

出典:井上達夫「九条問題再説」『法の理論33』2015年 (*引用者注:自衛隊を違憲とみなす「原理主義的護憲派」と合憲とみなす「修正主義的護憲派」のこと)

「大人の知恵」では、もうもたない。「交戦(戦争)を認める」、「認めない」は、決して瑣末なことではなく本質的なことだ。この点で意見が一八〇度異なるにもかかわらず、「九条の条文護持」で一致して自民党・安倍政権に対抗するという「大人の知恵」は、結局問題の先送りに過ぎず、安倍政権が狙う「戦争できる国家への転換」の歯止めにはならない。戦争、軍隊、この国の行方について最終判断を下す権利をもつ国民が、主権者であることを自覚し、議論を重ね、「大人の知恵」ではなく「人間の知恵」を生かして、戦争をするかしないかの結論を出すしかない。

出典:今井一「『解釈改憲=大人の知恵』という欺瞞ー九条国民投票でこの国に立憲主義をとりもどそう」現代人文社、38〜40頁

このように安保法案に対して反対であり、同じ「立憲主義」を語る論者も、問題のとらえ方が大きく異なっているのである。

いずれにせよ、自衛隊を合憲とする従来の政府の憲法解釈が、決して、憲法の論理から自然に出てきたものではなかったという歴史的事実は、改めて共有しておく必要があると思われる。これまでも紹介してきた高辻正己元内閣法制局長官の証言である。

朝鮮戦争の勃発で、日本を取りまく国際環境が大きく変わると見た吉田政権からの政治的要請が先にあり、法制局は必要に迫られて実力組織の合憲性の理由付けを変更したのであり、(法制局の)理論が先行していたということではない。」

出典:中村明「戦後政治にゆれた憲法九条ー内閣法制局の自信と強さ-第3版」西海出版、2009年、389頁

阪田雅裕元長官は安倍政権の解釈変更を「立憲主義」の危機だとして批判し続けてきたが、9条と現実の乖離を是正してこなかった責任は政治よりむしろ国民の方が大きいとも指摘していた。また、安保法案に反対の立場で衆議院の参考人質疑(7月1日)に出席した伊勢崎賢治・東京外国語大教授も、野党の対応に失望感を表し、9条を空洞化させてきた談合の歴史こそが根本的な問題であると訴えていた。

反町キャスター  憲法改正を経ずして安保法制に手をつけるのは政治の怠慢に見えますか?

阪田雅裕氏  そうですね。政治の怠慢と言うと言い過ぎだと思いますけれど、いわゆる護憲運動みたいなのも盛んであり、憲法を神棚のうえに上げて拝んでいるというような状況が続いていたと思うんですね。これは政治の責任でもありますが、それ以上に国民の責任だと思うんです。法令の文献というのは、憲法に限らず、どんどん古くなるわけで、時代はまったくお構いなく変わっていくわけですからね。時代にあうように法律はしょっちゅう改正しているわけですから、何で憲法だけが不磨の大典なのかという思いはずっと思っています。

出典:BSフジ・プライムニュース(2015年7月10日)

伊勢崎賢治氏  (…)そもそも、個別的自衛権の行使においても、自衛隊は国際人道法上の交戦主体になれるのか。衆議院の参考人で呼ばれた時、この自衛隊の法的地位の問題を僕は主張したんです。僕を呼んだのは野党の連合のはずなんですが、僕の陳述が終わった後、誰も僕に質問をしなかったんですよ。ひとつだけ、短い、どうでもいい質問を共産党がしただけです。呼んだ野党もです。つまり、与野党両方が、特に野党の方が、この議論を避けたいんだと僕は思っています。何故彼らは避けるのか。憲法9条の問題になるからです。自衛隊を軍にする、つまり9条改憲の議論になってしまうから。改憲の具体案は与党しかありません。だって、護憲派は、「条文護持」ですから、変えるという行為は、たとえ仮想でもしたくない。でも、そうこうしているうちに、集団的自衛権の行使容認の閣議決定で、9条が大義名分として禁止してきた最後の砦が破られてしまった。9条の完全空洞化です。(…)

僕は、今回の安保法制で突きつけられた憲法の完全空洞化は、右、左の談合の歴史の結果だと思います。特に左が罪深い。今、野党の国会議員の方々にお願いしたいのは、その談合の過去の総懺悔です。そして、この根本的な問題を、林さんが言われるように、国民の判断に委ねることです。民主主義体制の中で、国民一人一人の自己保存のための役割を自衛隊という集団にどう付託し、どう制限するの法的枠組みを規定するのか。護憲派は、「護憲的改憲」のビジョンを、もうそろそろ考える時期に来ているのではないでしょうか。

出典:自衛隊を活かす会シンポジウム(2015年7月28日)伊勢崎賢治氏の発言

こうした指摘は、今回の安保法案をめぐる「報道の二極化」現象のもとで、ほとんど注目されることはなかった。しかし、立場がどうであれ「9条と現実の乖離」とどう向き合っていくのかという問いは、憲法と安全保障のあり方を少しでも真剣に考えるのであれば、誰一人として避けて通れないはずである。

(了)