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幻の1970年代ヘヴィ・サイケからギター交響曲への進化。異才ピート・ファインの歩んだ道のり

山崎智之音楽ライター
Pete Fine / courtesy P-Vine Records

1970年代初め、ニューヨークの摩天楼の狭間を自由に飛び交ったロック・モンスターがいた。ザ・フロウはヘヴィなサイケデリック・ロックでアンダーグラウンドを揺るがし、アルバム『ザ・フロウのグレイテスト・ヒッツ』(1972)を発表するが、その音楽はローカル規模で支持されながらも全米、そして世界に響きわたることはなかった。彼らはあたかも映画『空の大怪獣Q』のごとく、誰の目にも触れることなく高層ビルの死角に巣を作っていた。

ザ・フロウのリーダーだったピート・ファインはさらにギター・ミュージックとオーケストラの融合を図るべく、ソロ・アルバム『クリスタルの想いの日へ』(1974)を制作。それから間もなくニューヨークを去り、バンドは霧散することになる。

そして50年。ロック史において語られることも稀だった2枚の“幻”のアルバムが発掘され、日本でもリリースされる。それを機会に現在ではアリゾナ州トゥーソンに住むピートをキャッチ、失われた時代と現在の音楽活動について訊くことが出来た。日本のメディアとは正真正銘初インタビュー。ロック史の知られざる1ページがひもとかれる。

The Flow『The Flow's Greatest Hits』ジャケット(Pヴァインレコーズ/現在発売中)
The Flow『The Flow's Greatest Hits』ジャケット(Pヴァインレコーズ/現在発売中)

<3人でダイナミックな起伏のある音楽をやりたかった>

●あなたが1970年代に発表した『ザ・フロウのグレイテスト・ヒッツ』『クリスタルの想いの日へ』が日本盤としてリリースされます。

すごいスリルを感じるね。当時は本当にクリエイティヴな時期だった。あれから私のギターのテクニックは上達したし、音楽に関する知識も増した。ただ、あの頃の情熱は代え難いものがあるし、2枚の作品は誇りにしているよ。ザ・フロウの私以外のメンバー2人はニューヨークに住んでいて、メールで連絡を取り合っているんだ。元気そうで「また何かやろうよ!」とか話し合っている。

●ザ・フロウは“東海岸からのブルー・チアーへの回答”と呼ばれる一方で、ニューヨークならではのアート性も感じさせます。どんな音楽性を志していたのですか?

元々バンドは4人編成だったんだ。ブルックリンで結成して、ドランケン・ドッグという名前だった。いかにもヒッピーが付けたような名前だよな(苦笑)。それからベーシストが脱退して、モンティ・ファーバーがギターからベースに転向したことでザ・フロウとなったんだ。私とモンティ、スティーヴ・ステアラー(ドラムス)はヤードバーズなどが好きで、あらかじめ曲を書いたりせず、とにかく集まってジャムを始めたんだ。何が起こるか予測不能だった。ほとんどテレパシーみたいな感じで、お互いの気持ちが通じ合ったよ。それから私が曲を書き始めて、モンティも書いた。私たちはロックンロールも好きだったし、ダウンタウンで成長しつつあったアート・シーンにも共感を覚えていた。そんなすべてが結実したのがザ・フロウの音楽だったんだ。

●ザ・フロウというバンド名はどのようにして名付けたのですか?

ああ、そのことについて最近モンティと話したばかりだよ!私たちはニューヨークにある教会の前をいつも通っていた。その玄関のメッセージ・ボードに「神の祝福が“流れ出す”」と書かれていて、そこから取ってザ・フロウという名前にしたんだ。私たちはロワー・マンハッタンに住むパイプオルガン奏者のところに毎週日曜日通っていた。日曜礼拝の後、演奏してくれたけど、すごくサイケデリックでパワフルな音色だったね。

●「太陽を呑む」がブラック・サバスを彷彿とさせたりしますが、自分たちが“ハード・ロック”を演奏している意識はありましたか?

まったく意識していなかった。ジミ・ヘンドリックスやレッド・ツェッペリンも聴いていたけど、模倣しようとは思っていなかったし、「よし、俺たちはハード・ロック・バンドだ」と話すこともなかった。もちろん当時は“クラシック・ロック”なんて呼び名もなかった。とにかく3人でダイナミックな起伏のある音楽をやりたかったんだ。深夜ジャムをやって、あらゆる実験を試みていたよ。私たちは“ジャムズ”というリハーサル・スペースを持っていて、それを運営していくために他のバンドにも貸し出していた。エドガー・ウィンターやニューヨーク・ドールズとか、有名なアーティストもニューヨーク公演の前に使っていたんだ。そうして空いた時間に私たちがリハーサルした。もう1ヶ所、“バギーズ”というリハーサル・スペースがあって、ジミ・ヘンドリックスなどが使っていたけど、人気があったから、オーバーブッキングになってしまうことがあった。そのおかげで私たちのスペースもけっこう繁盛していたんだ。

●KISSの前身バンドであるウィキッド・レスターとリハーサル・スペースを共有していたそうですね?

それはちょっと事実とは違うな。私はジーン・シモンズと同じハイスクールのクラスメートだったんだ。当時彼はジーン・クラインという名前だった。彼がバンドを結成するにあたってギタリストを募集していたことがあった。でも当時私は別のバンドをやっていたし、オーディションには興味がなかったんだ。もし彼と一緒にやっていたら、また異なった人生を送っていたかも知れないね。

●当時のジーン・シモンズはどんな人でしたか?

ジーンは当時から自分が成功を収めると確信していた。ちょうど顔面にペイントをするようになった頃だよ。「こいつは何をやっているんだ?」と思ったけど、彼がやったことがビジネスとして大成功だったことはロックの歴史が物語る通りだ。

●実験的な要素は1960年代のサイケデリアからの影響もあったでしょうか?

もちろん多くの人たちがサイケデリックなドラッグを使用していたし、ザ・フロウの“実験的”な音楽性の一部がドラッグの影響であることは否定出来ないよ。でもそれよりも、マイルス・デイヴィス、マハヴィシュヌ・オーケストラ、トニー・ウィリアムス・ライフタイムなどを聴きこんでいたし、そっちの方が大きかったな。ニューヨークにはあらゆる音楽が溢れていて、常に刺激を受けてきたんだ。その頃、リトル・イタリーの細長いアパートに3人で住んでいて、いつもジャムをしていた。でかい音を出していたし、近所迷惑だっただろうな(苦笑)。「犬を見た」なんかはそのアパートでテープレコーダーで録った曲だった。ニューヨークではパンク・ロックが勃興しつつあったし、実験音楽やプログレッシヴ・ジャズ...マイルス・デイヴィス、チック・コリア、トニー・ウィリアムスなどをロワー・マンハッタンのジャズ・クラブで見たよ。常に何かが起こっていた。エキサイティングな時代だったね。

●ブルー・オイスター・カルトやサー・ロード・ボルティモア、ブーメランなどニューヨークのハード・ロック・バンドと交流はありませんでしたか?

まったくなかった。ブルー・オイスター・カルトはロングアイランド出身だったし、私たちより世代が後だったしね。私たちは親しいミュージシャンもいたけど、あまりあちこちで交流するタイプではなかったんだ。素晴らしいサックス奏者と毎晩のようにジャムをやったけど、今では名前すら覚えていないよ。

●子供の頃、両親が聴くベートーヴェンやチャイコフスキーを耳にして育ったそうですが、それはザ・フロウの音楽に影響を与えましたか?

うん、クラシックの専門的な教育を受けたことはないけど、ずっと好きで聞いてきたし、多大な影響を受けてきた。当時は意識していなかったけど、ザ・フロウではギターでオーケストラを指揮していたようなものだったんだ。ただロック・トリオで演奏するだけではなく、より大きなヴィジョンを持っていた。

●ザ・フロウはバッハをモチーフにした「トッカータ ニ短調」をプレイしていますが、それはロックとクラシックのクロスオーヴァーをシリアスに志していたのですか?それともデイヴ・エドモンズ/ラヴ・スカルプチャーの「剣の舞」のようにノヴェルティ・ソング的な要素もあったのでしょうか?

もちろんクラシックの名曲をギターで再現する試みとしては真剣に取り組んだけど、過剰にシリアスになり過ぎないよう心がけていた。常に“楽しめる”ことを優先に考えたんだ。バッハの「トッカータとフーガ」はパイプオルガンで聴いて、感銘を受けた曲のひとつだった。ライヴでも他の曲へのイントロとして弾いていたんだ。

●ザ・フロウは頻繁にライヴを行っていましたか?どんなバンドと共演しましたか?

ニューヨーク周辺でライヴをやっていたよ。ステージ・コスチュームに出す金がなかったんで、ベッドのシーツを古代ローマのトーガのように巻いてプレイしたんだ。ツアーなどはしなかった。セントラル・パークで野外コンサートをやったことがあるんだ。何千人もお客さんが集まって、すごい盛り上がりだった。友人だったウルフベインというバンドも出演したんだ。ロブ・リオン(ギター)、マイク・キメル(ドラムス)、ダリル・なんとか(ベース)というトリオ編成のインストゥルメンタル・バンドだった。レコードは出していない筈だけど、プログレッシヴ・サイケデリックな音楽性で、大きな成功を収めるべきだったよ。彼らとは何度もジャムをやった。テープが残っていないのが残念だ。

●アルバムの収録曲で「第三楽章」というのは?「第一楽章」「第二楽章」もあるのですか?

モンティがギルドの左利き用の12弦アコースティック・ギターをプレゼントしてくれたんだ。そのギターで組曲を書いた。全4楽章構成の第3楽章の出来が良かったんで、アルバムに入れたんだ。変拍子の曲だよ。いろんなリズムの挑戦もしているんだ。「おかしくニクイ女の子」なんかもマハヴィシュヌ・オーケストラなどからの影響で、7拍子の曲だ。もらった12弦ギターはすっかりオンボロになってしまったけど、今でも弾いているよ。

The Flow / courtesy P-Vine Records
The Flow / courtesy P-Vine Records

<レア盤だったけど、引っ越すとき廃棄してしまった!>

●1972年に『ザ・フロウのグレイテスト・ヒッツ』を制作したいきさつを教えて下さい。

ポール・アヴァキアンというギター教師と知り合って、彼がマネージャーを買って出てくれたんだ。ライヴのブッキングなんかもしてくれたし、ザ・フロウのアルバムを出そうと言い出したのも彼だった。そのときアルバム1枚ぶんの曲はあったけど、レコーディングしてミックスするだけの予算はなかった。それでアルバム半分だけをミックスして、片面だけのLPをプレスしたんだ。クレイジーなアイディアだと思ったよ(苦笑)。100枚のみプレスしたからレア盤だったけど、私がニューヨークから引っ越すとき廃棄してしまった。今から思えばもったいないことをした!でも引っ越しの荷物を減らす必要があったんだ。その後ポールが制作費を出してくれて、もう片面もミックスして、両面プレスのLPを出すことが出来た。でもこちらも私が持っていたものは引っ越しのときに捨ててしまったよ。

●『ザ・フロウのグレイテスト・ヒッツ』は一般のレコード店でも売られたのですか?

うん、大規模な流通に乗ることはなかったけど、マンハッタンの数店に卸して売ってもらったよ。まあ、数枚しか売れなかったと思うけどね。私が捨てたのは12枚ぐらいだったかな。他のメンバー達が自分たちの取り分をどうしたのかは知らない。

●ザ・フロウはどのようにして終わったのですか?

いくつか理由があったんだ。当時始まったばかりのFMラジオでブルックナーの交響曲第8番を聴いたこともそのひとつだった。凄い!と思って、オーケストラによる音楽をやりたくなったんだ。...でも、さらに大きな原因だったのは、私が最初の結婚をしたことだった。バンド3人での生活が終わったんだ。彼女が親族からいくらか遺産を受け継いだんで、自動車を買って、アメリカ各地を回ってみようということになった。それで荷物をまとめて、ニューヨークを後にした。バンドの仲間たちと離れるのは辛かった。でも当時の私は20代だったし、変化を必要としていたんだ。結局アリゾナ州トゥーソンに落ち着いて、ずっと暮らしているよ。

Pete Fine『On A Day of Crystaline Thought』ジャケット(Pヴァインレコーズ/2023年8月2日発売)
Pete Fine『On A Day of Crystaline Thought』ジャケット(Pヴァインレコーズ/2023年8月2日発売)

<12弦ギターとオーケストラによる、よりクラシカルなヴァージョン>

●『クリスタルの想いの日へ』はいつ制作したのですか?

『クリスタルの想いの日へ』はまだニューヨークに住んでいる頃にレコーディングしたんだ。ザ・フロウは存続していたけど、活動のペースが落ちてきた時期だった。12弦ギターで書いた曲があって、ストリングスと共演したかったんだ。それでモンティがベース、ウルフベインのマイク・キメルがドラムスをプレイしているけど、ストリングスやフルート、フレンチホルン、トランペットの奏者を雇っている。最初の嫁に一部費用を負担してもらったんだ。彼女には今でも感謝しているよ。

●オーケストラ・スコアの作曲法はどのようにして修得しましたか?

リンカーン・センター(ニューヨークの総合芸術施設)で楽譜の貸し出しをしていて、それで独学で学んだんだ。ベートーヴェン、チャイコフスキー、マーラーの楽譜をじっくり読み込んで、音楽理論や、譜面の書き方を研究したよ。当時12弦ギターとオーケストラのための音楽をやっている人は、私の知る限りいなかった。よりビッグなサウンドを求めていたんだ。私はギタリストだけど、クラシックの交響曲を好んで聴いていた。頭の中で鳴っている音を実現させようとしたんだ。

●『クリスタルの想いの日へ』はどのような状況でレコーディングしたのですか?

アルバムは“サウンド・エクスチェンジ・スタジオ”でレコーディングした。オーナーは後に“イーヴンタイド”というギター・ペダル業者で成功を収めた人だよ。だからスタジオにはリヴァーブ、ディレイなどのペダルのプロトタイプがあって、自由に使うことが出来たんだ。それでさらに実験的なサウンドになったと思う。

●ザ・フロウ時代にやった「瞑想」をリメイクして、アルバム・タイトルも歌詞の一節から取っていますが、当時のあなたにとって重要な曲だったのですか?

そうだね。ライヴでは必ずプレイしていた。歌詞も書いたし、1970年代の自分を代表する曲だと思う。『クリスタルの想いの日へ』では12弦ギターとオーケストラによる、よりクラシカルなヴァージョンをレコーディングしたかったんだ。

●「バイジンキーズ」もザ・フロウのものとかなり異なったアレンジでリメイクされていますが、どんな意図があったのですか?

ザ・フロウのロック・ヴァージョンも気に入っているけど、「瞑想」と同様に、音楽の視野を広げたかったんだ。効果音を入れたりしてね。この曲ではマイク・キメルがドラムスを叩いている。「バイジンキーズ」というタイトルの意味は特にないんだ。「おいおい」とか、そういう感嘆のフレーズだよ。

●『クリスタルの想いの日へ』の音楽性のハイライトといえるのは?

「啓示/序曲/サムへ」はあの時期の自分がやりたかったことを込めた集大成的な曲だった。新しい冒険だったし、スリルだったよ。私にとってオーケストラ・ミュージックへと踏み出していく大きな一歩だった。それともう1曲、「サムへ」のサムは最初の嫁の名前だよ。ストリングスやフルート、そしてサム自身のヴォーカルも入っている。

●アルバムのセールスはどのようなものでしたか?

ビジネスとしてはまったく成り立たなかったよ。100枚しかプレスしなかったからね。『ザ・フロウのグレイテスト・ヒッツ』はバンドの3人で分けたけど、『クリスタルの想いの日へ』は私のソロ・アルバムだったから、私が100枚をさばかねばならなかったんだ。ひと苦労だった。モンティがベースを弾いてくれているし、何枚か渡したけどね。

●『クリスタルの想いの日へ』に伴うライヴは行いましたか?

いや、当時はやらなかった。ニューヨークを去ってしまったからね。でもトゥーソンに住むようになってから1999年だか2000年、「啓示/序曲/サムへ」を編曲し直して上演したことがある。若い頃の曲だけど、完成度が高いのに驚いたね。...ニューヨークで過ごした頃は音楽への愛情に溢れた、楽しい日々だった。当時の仲間たちと共有した経験はかけがえのないものだ。個性のあるクリエイティヴな音楽を生み出した、素晴らしい時期だったよ。

Pete Fine / courtesy P-Vine Records
Pete Fine / courtesy P-Vine Records

<ギターとオーケストラの交響曲は続けていく>

●最近はどんな音楽活動をしていますか?

アリゾナ州トゥーソンでビヨンド・ワーズというプログレッシヴ・フュージョン・バンドをやっている。ここ1年ぐらいは活動していないけどね。私の書いたオリジナル曲をメインに、ビリー・コブハムやジェフ・ベックのカヴァーもプレイしている。ザ・フロウの曲は音域が高くてもう歌うことが出来ないけど、ギター・リフは今でも弾けるよ。こないだ思い出して少し弾いてみたばかりだ。それからオーケストラ曲を書いて、コンサートもやっている。トゥーソンが主だけど、ブラジルでもエレクトリック・ギター・コンチェルトのコンサートをやった。ロックと交響曲の融合はイングヴェイ・マルムスティーンとかがやるずっと前からやってきたんだ。そんな方向性に初めて挑戦したのが『クリスタルの想いの日へ』だったから、特別な思い入れがあるよ。オーケストラとの共演はコストがかかるし、なかなか出来ないけど、ミュージシャンとして満足感のある作業だ。これからギターとストリングス・カルテットの共演もしていきたいね。

●今後の活動について教えて下さい。

ギターとオーケストラの交響曲は続けていくつもりだ。最近ストリング・カルテットと公演を行って、30分の大曲をプレイしたよ。これからもサブスクリプションやYouTubeで新しい音楽を発表していくから、ぜひ聴いて欲しい。それからビヨンド・ワーズでレコーディングやライヴをやりたいと考えている。毎年開催されている“トゥーソン・フォーク・フェスティバル”で12弦ギターのソロ演奏、あるいはブルー・プレイリー・ドッグスというバンドとやる予定だ。歳は取ったけどまだ指は動くし、アクティヴであろうとしているよ。いつか日本でもライヴをやりたいね。まだまだやることがたくさんあるよ。

【最新アルバム】

ザ・フロウ『ザ・フロウのグレイテスト・ヒッツ』

(P-VINEレコーズ/現在発売中)

https://p-vine.jp/music/pcd-27060

ピート・ファイン

『クリスタルの想いの日へ』

(P-VINEレコーズ/2023年8月2日発売)

https://p-vine.jp/music/pcd-27070

【ピート・ファイン公式サイト】

https://petefine.com/

【YouTubeチャンネル】

https://www.youtube.com/@PeteFine

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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