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【インタビュー後編】マリオ・ラーリが語るデザート・ロックとLA・シアトルの境界線

山崎智之音楽ライター
Yawning Man 2020 / courtesy Mario Lalli

ヨーニング・マンを率いてライヴ・アルバム/映像作品『Live At Giant Rock』を発表したマリオ・ラーリへのインタビュー後編。

前編記事に引き続き、“ゴッドファーザー・オブ・デザート・ロック”の異名を取るマリオにいざなわれて、さらにカリフォルニア・デザート(砂漠/土漠)の奥深くへと旅立とう。

<シアトルには活気のあるクラブ・シーンがあった。デザートには何もなかった>

●ヨーニング・マンはデザート・ロック・シーンに多大な影響をもたらしたにも拘わらず、その音楽性のフォロワーがいないのが興味深いですね。

俺たちに影響力があったとしたら、それは音楽性やサウンドよりも、イデオロギーの面だった。“常にオリジナルであれ”と主張してきたから、音楽面のフォロワーがいないんだよ。

●1990年代前半、グランジでシアトルの音楽シーンがクローズアップされたことで、当時カイアスのニック・オリヴェリは「次に来るのはデザート・ブームだ!」と期待したそうですが、あなたも同じように考えていましたか?

Yawning Man『Live At Giant Rock』ジャケット(Heavy Psych Sounds/現在発売中)
Yawning Man『Live At Giant Rock』ジャケット(Heavy Psych Sounds/現在発売中)

いやー、デザート・ブームが来るとは考えなかった(苦笑)。ブームを象徴するバンドがいなかったしね。ただ、結果としてクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジは大成功を収めたし、ジョシュはギタリストとして、ソングライターとして、コラボレーターとして、現代の音楽シーンを代表する存在となっている。同じデザート出身者として、彼のことは誇りにしているよ。彼らのおかげで、ヨーニング・マンやファットソー・ジェットソンの奇妙な音楽も注目されるようになった。俺たちはアメリカだけでなくヨーロッパやオーストラリアをツアーしたことがあるし、たった今、日本のジャーナリストからインタビューを受けている。ジョシュがいたカイアスは『スカイ・ヴァレー』(1994)でアクロス・ザ・リヴァーの「N.O.」をカヴァーしたけど、今でもたまに俺の銀行口座に印税が振り込まれるよ。

●デザートとシアトルの違いを挙げるとしたら?

シアトルには活気のあるクラブ・シーンがあって、ニルヴァーナやパール・ジャム、サウンドガーデンなど多くのバンドが巣立っていった。それぞれが刺激しあって、影響を受けあって、シアトル・サウンドを築いていったんだ。デザートには何もなかった。いわゆる“シーン”もなかったし、バンドも少なかった。比較的近場でコーチェラ・フェスティバルが行われていたけど、俺たちみたいなバンドとはあまり縁がなかったしね。ポップやエレクトロニカ、R&Bが中心で、ロックはお呼びではなかったよ。

●デザート・シーンのバンドでもっと大きな成功を得るべきだったバンドはいますか?

判らないな。クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジは素晴らしいバンドだけど、これほどの成功を収めるとは俺も想像もしなかった。友人のショーン・ウィーラーは素晴らしい才能を持った真のアーティストだし、もっと大勢の音楽リスナーに聴かれるべきだと思う。

●1990年代にカイアスが成功を収めたのは、他のバンドとどこが異なっていたのでしょうか?

カイアスにはバンドとしての明確なヴィジョンがあったと思う。彼らはデザート出身のバンドで初めてプロフェッショナルとしてメジャー・レーベルの“エレクトラ”と契約して、MTV向けのミュージック・ビデオを作って、ブッキング・エージェントを雇って海外でもツアーをしていた。もちろん彼らの音楽が最高だったというのが第一の理由だけどね。カイアスはスペシャルなことをやっていたし、俺自身、彼らの音楽は大好きだったよ。カイアスには信念があったし、才能もあった。バンドは解散したけど、メンバー達は今でも音楽を続けている。俺がロサンゼルスにいた1980年代中盤、サンセット・ブルヴァードには何千というヘア・メタル・バンドがいたけど、その大半は消え去っていった。それが大きな違いだったんだ。

Yawning Man 1987 / courtesy Mario Lalli
Yawning Man 1987 / courtesy Mario Lalli
Yawning Man @ Psycho Las Vegas 2017 / photo by yamazaki666
Yawning Man @ Psycho Las Vegas 2017 / photo by yamazaki666

<デザート・ロックはジャムを繰り返すうちに、自然に出来上がっていった>

●1980年代にあなたが企画したジェネレーター・パーティーには、どんなバンドが出演しましたか?

ヨーニング・マンが共演したのはロサンゼルスのバンドが多かった。エクイデミアスやレフト・インセイン、オルタードローン...地元出身ではアンサウンドがとても良いバンドだったな。彼らの多くはビッグになるとか、そういう野心は持っていなかった。ただライヴをやって、スケートボードをして、仲間たちと楽しむことだけを考えていた。だからスタジオ・レコーディングを残してすらいないバンドも多いんだよ。

●ジェネレーター・パーティーに出演したバンドで、ある程度知名度があったのは?

セイント・ヴァイタスやジ・オブセスド...ジャームズのドン・ボールズがやっていたセレブリティ・スキンも出演したよ。ヴァージニア州リッチモンド出身で“SST”からレコードを出していたオルター・ネイティヴズも出たことがある。グウォー(GWAR)のメンバーがやっていたバンドで、フルート&サックス奏者がいて、よりフリー・ジャズに近いアプローチだった。あとはマイキー・ドーリングもデザートでやっていた(ソリッド・スティール)。彼はスノットやソウルフライにも参加したり、成功した部類に入るんじゃないかな。

●1980年代のアクロス・ザ・リヴァー時代からグレッグ・ギンと交流があったに拘わらず、ソート・オブ・カルテットの『Bombas De Amor』が1993年、ファットソー・ジェットソンの『Stinky Little Gods』が1995年とリリースが遅れたのは何故ですか?

アクロス・ザ・リヴァーは1985年、“SST”からライヴ・アルバムを出すことになっていたんだ。でも、レーベルのごたごたで、結局リリースされなかった。その後、俺たちはデザートに戻ったから、しばらく連絡が途絶えたんだ。彼らは俺たちが荷物をまとめて田舎に帰ったと思っていたんじゃないかな。で、俺はインディオに“リズム&ブリューズ”というクラブを開店したんだ。そのクラブにグレッグ・ギンのバンドが出演して、ファットソー・ジェットソンと対バンした。そうしてファットソー・ジェットソンのアルバムを“SST”から出すことになったんだ。それが『Stinky Little Gods』だよ。

●ファットソー・ジェットソンの音楽性はロックとジャズ、サーフなどが混合したものですが、その独自のスタイルはどのように築かれたのですか?

ジャムを繰り返すうちに、自然に出来上がっていったんだ。ロックやジャズ、サーフに加えてブルース、ニュー・ウェイヴ...自分たちが普段聴いているさまざまなスタイルを、ジャムでブチ込んでいったんだよ。

●ニュー・ウェイヴというとどんな?

ディーヴォ、バウハウス、スージー&ザ・バンシーズ、ナーヴァス・ジェンダー、カトリック・ディシプリン、サバーバン・ローンズ、ゲイザX...ニュー・ウェイヴではないけど、フランク・ザッパからも影響を受けた。

●ファットソー・ジェットソンの3作目『Toasted』(1999)は異常なまでのテンションの高さと奇想天外な展開の名盤だと思います。

自分たちのどのアルバムも好きだけど、『Toasted』も良いアルバムだと思う。アルバムの曲はいずれもジャムから生まれたもので、外部プロデューサーのクリス・ゴスを起用することで、よりオーガナイズされたサウンド作りを志したんだ。そういう意味で、良い曲の入った作品だよ。活発にライヴとレコーディングをやっていた時期だし、ヨーロッパ・ツアーもやった。1999年にはオランダのアイントホーフェンでユニーダ、ネビュラ、ゴートスネイク、俺たちで“アフターバーナー”というショーをやったんだ。ファットソー・ジェットソンのキャリアにおいてハイライトのひとつだよ。

●1980年代、デザート・ロックのシーンの中心となるようなクラブやレコード店はありましたか?

パーム・スプリングスの“レコード・アレイ”っていう店によく行ったよ。近場でパンク・ロックの輸入盤を置いていたのはその店だけだった。だからみんなハリウッドやリヴァーサイド、オレンジ・カウンティに行って、レコードを買い漁ったよ。俺が運転免許を取って最初にしたのは、サンセット・ブルヴァードの“タワーレコード”にレコードを買いにいくことだった。それと通販も利用していたな。LAの“SST”やワシントンDCの“ディスコード・レコーズ”のメール・オーダーでいろいろなレコードを買っていた。仲間と「俺はこれを買うから、お前はこれを買ってくれ」って相談したよ。金はなかったけど楽しい日々だった。

Yawning Man Live At Giant Rock 2020 / courtesy Mario Lalli
Yawning Man Live At Giant Rock 2020 / courtesy Mario Lalli
Yawning Man 1987 / courtesy Mario Lalli
Yawning Man 1987 / courtesy Mario Lalli

<ジェネレーター・パーティーについて伝えるのは自分の使命>

●デザート・ロックは1990年代後半、いわゆるストーナー・ロックの一部として注目されましたが、その呼び名についてどう思いますか?

うーん、特に嫌いというほどでもないよ。「どんな音?」と訊かれたら、何らかの表現があると便利だからね。コミュニケーションのためのツールだよ。“パンク”や“メタル”、“ポスト・ロック”だって単なる呼び名だ。自分自身を特定のジャンルに押し込めるつもりはないけど、他の人がどう呼んでも気にしないよ。俺自身、SNSで何か告知をするときはハッシュタッグに#stonerrockを使ったりするしね。ただ俺の中で“ストーナー=大麻を吸っている人間”のイメージはちょっと異なるんだよな。俺のハイスクール時代、ストーナーといえば学校の駐車場で大麻を吸っている、ジャーニーとかボン・ジョヴィのTシャツを着ているような連中だった。あと頭に浮かぶのはブラック・サバスの「スウィート・リーフ」だな。俺の兄貴がブラック・サバスやディープ・パープルを教えてくれたけど、当時のロックは大麻カルチャーと密接だった。それと代表的なのはチーチ&チョンの「イアーエイク・マイ・アイ」ね(笑)。

●ロック音楽と大麻にはどのような関連があるでしょうか?

1960年代から1970年代にかけて、大麻はカウンターカルチャーの象徴のひとつだった。“俺はただキメて、楽しみたいだけだ”(映画『ワイルド・エンジェル』(1966)のセリフ)みたいな感じでね。ストーナー・ロックという呼び名はロックのカウンターカルチャー性を思い出させるものだったけど、音楽性やサウンドを表現するものではなかった。それに、大麻をキメてロックでイエーイ!...というのには知性が感じられない。俺はもう少し頭を使って音楽をやっているつもりだよ(苦笑)。ヨーニング・マンやファットソー・ジェットソンがやっている音楽には当てはまらないと思う。

●ジョシュ・ホーミは“ストーナー・ロック”という名前を嫌っていることで有名ですね。コンピレーション『Burn One Up! - Music For Stoners』(1997)のレコード会社の編成会議で、ストーナー・ロックという言葉が作られたその現場に彼がいたそうですが...。

うん、だからなおさらビジネス臭さを感じたんだろうね。ジョシュとはそのことを話し合ったことがあるよ。ストーナー・ロックという呼び名は、レコード会社主導でカイアスやクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジを売り出すために作ったキャッチフレーズみたいなものだし、ミュージシャンや音楽ファンの間で自然発生したものではなかったんだ。

●今後の活動予定を教えて下さい。

ヨーニング・マンとしては『Live At Giant Rock』のプロモーションを続けるつもりだ。LPとCDは“ヘヴィ・サイケ・サウンド”レーベルがリリースするけど、DVDは俺とガールフレンドの自主制作なんだ。本来ならライヴをやって、会場で手売りするんだけど、COVID-19のせいでそれが出来ないからね。ゲイリー・アーシーとビル・スティンソンはビッグ・シーニック・ノーウェアをボブ・バルチ(フー・マンチュー)とやっている。このバンドはスタジオ・プロジェクトで、ライヴはやっていない。ヨーニング・マンは去年(2019年)北米と南米、ヨーロッパ、オーストラリアをツアーして、すごく勢いに乗っていたんだ。それがCOVID-19で急ブレーキをかけることになってしまったのは残念だ。ファットソー・ジェットソンは2月22日、LAでのライヴ以降は活動をしていない。ひと休みだよ。俺自身はイギリス出身のサンズ・オブ・アルファ・ケンタウリとのコラボレーションをやったり、“パピー&ハリエッツ”というクラブで、ビデオ・プロジェクトの監修もしている。ちょっと前までフロア・マネージャーも務めていたけど、ツアー活動を優先することにして辞めたんだ。これからも音楽に関わっていくつもりだよ。

●あなたは中止になった“ストーンド&ダステッド”フェスのオーガナイザーでもあった?

うん、共同プロデューサーみたいな形でね。サウンド機材のコーディネーションもしていて、幾つかバンドのブッキングも担当した。電源の供給も担当している。大昔のジェネレーター・パーティーと同じことを今でもやっているわけだ(笑)。

●フェス主催の“カリフォルニア・デザート・ウィザーズ・アソシエイション”という団体は?

ああ、それはイベントを企画するチームだよ(笑)。ブッキングを担当したライアン・ジョーンズとブラント・ビョーク、そして俺のことだ。俺はかつて経営していたレストラン“カフェ322”は2012年に売却したけど、今では“プラスティック・カクタス”というマーチャンダイズ会社をやっている。バンドの音源やグッズだけでなく、デザートをテーマにしたオリジナル・デザインの商品も販売しているよ。COVID-19に負けず、新しい世界に順応しながら前進していくから、日本のファンにも応援して欲しいね。

●あなたは近年、かなりスリムな体型になりましたが、健康状態は如何ですか?

減量したことですごく健康になった。昔の体型だったら、きっと早死にしていたよ。1990年代には450ポンドぐらいあったんだ(約204キロ)。今ではその半分ぐらいだよ。食べすぎないようにして、適度な運動を心がけている。自分の人生で、今の体調がベストだよ。

●今日はデザート・ロックの“神話”について語っていただき、有り難うございました!

インタビューされるたびに必ずジェネレーター・パーティーについて訊かれるけど、それは今やロックの伝説だし、俺の原点だから、それについて伝えていくのは自分の使命だと考えている。俺はPRエージェントを雇ったことがないし、過去30年で50回ぐらいしかインタビューはやっていないんだ。だからまだ話すのに飽きていないよ(笑)。ヨーニング・マンの『Live At Giant Rock』を通じて、日本の音楽ファンにデザート・ロックの世界に触れてもらえるのは嬉しいね!

【海外レーベル公式サイト】

Plastic Cactus Merchandise

https://plasticactus.com/

【ヨーニング・マン Bandcamp】

Yawning Man Bandcamp

https://yawningman.bandcamp.com/

【関連記事】

2010年、ブラント・ビョークのインタビュー

http://yamazaki666.com/interviewbrant.html

【インタビュー前編】ジョシュ・ホーミが語るクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ新作『ヴィランズ』

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20170826-00074943/

【インタビュー後編】ジョシュ・ホーミがもっと語るクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ『ヴィランズ』

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20170829-00075057/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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