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【インタビュー後編】レッド・ドラゴン・カーテル来日。ジェイク・E・リーが語る音楽愛と過去の秘話

山崎智之音楽ライター
RED DRAGON CARTEL courtesy M&I Company

2019年4月に来日公演を行うレッド・ドラゴン・カーテルのギタリスト、ジェイク・E・リーへのインタビュー後編。

前編記事では前進を続けるジェイクの音楽哲学を語ってもらったが、今回は彼の音楽性を形作ったさまざまなスタイル、そして悪名高き“あの”幻のミュージシャンについて訊いた。

<3つのコードと5つの音で何をするか。それがブルースの良いところであり、難しいところ>

●バッドランズや『パティナ』で聴かれるあなたのブルース・テイストは、どんなところから来たのでしょうか?

ギターを始めたとき...もう50年前の話だ(苦笑)。毎月“ギター・プレイヤー”誌を隅から隅まで読んでいた。あるときリッチー・ブラックモアについての記事を読んでいたんだ。リッチーは15年弾いていると話していた。「凄いな!15年もプレイしているからリッチーはあんなに巧いのか!」と思ったよ。俺も15年間ギターを練習したらリッチーみたいになれるのかな?...と考えたんだ。実際には、50年経っても彼にはまったく追いつけないけどね!オジーのバンドに加入したとき、ギターを始めて13年が経っていた。もう36年前の話だよ。その時代と今の俺はまったく異なった人間だし、異なったギタリストだ。もし36年前と同じことをやっていたら、自分自身を許せないだろう。何も学ばず、まったく成長していないということだからね。ミュージシャンというものは、常に前進する努力を怠ってはいけない。それはミュージシャンでなくとも、人生すべてについて言えることだ。進化がないと、人生は退屈になってしまうよ。...ゴメン、質問は何だっけ?

●(笑)ブルース音楽とはどのように出会ったのでしょうか?

俺がギターを始めた頃、教師に教わったりしなかったんだ。教則本を買って、独学で練習したよ。 “メル・ベイ・メソッド”という、50年前のアメリカでは定番の教則本だったんだ。メル・ベイは基本的にジャズ・ギタリストだったんだと思う。最初にAやDコードの押さえ方を学んだよ。それからレコードを聴きながらコピーするようになった。ブルースが多かったのは、聴きながらコピーしやすかったからだった。ロック・ギターの基本みたいな感じだったんだ。もちろん本物のブルースマンの魂をコピーすることは難しいけど、表面上はコピーしやすかった。3つのコードと5つの音しかないわけだからね。実際にブルースのフレーズを弾くようになって気付いたのは、その3つのコードと5つの音で何をするか...ということだった。それがブルースの良いところであり、難しいところなんだ。それでブルースのレコードを愛聴するようになった。今でもブルースはよく聴いているよ。

●どんなブルース・ギタリストから影響を受けましたか?

ジョニー・ウィンターからは多大な影響を受けたね。彼は燃えるような、ほとんど暴力的なブルース・ギターを弾いていた。エリック・クラプトンも好きだけど、あまりに綺麗で取っつきやすかったから、それよりもピーター・グリーンにハマったな。ジェフ・ベックも凄かった。彼がブルースを弾くと、アメリカ南部ではなく、宇宙人のブルースのようだったんだ。マイケル・ブルームフィールドも素晴らしかった。彼らのギターを聴いて、さらに昔に遡ったんだ。ライトニン・ホプキンスは最高だったし、Tボーン・ウォーカーはほとんどエレクトリック・ブルースの始祖といえる存在だった。Tボーンはエレクトリック・ブルースのさまざまな可能性を提示して、数え切れないギタリストに影響を与えたんだ。俺もその1人だよ。スティーヴィ・レイ・ヴォーンがやっていた、頭の後ろでギターを弾くという技も、元々はTボーンがやっていたんだよ。ブルースはシンプルであるからこそ、奥深いんだ。俺もいつかもっとブルースを掘り下げたいね。

Jake E. Lee courtesy of M&I Company
Jake E. Lee courtesy of M&I Company

<マイルス・デイヴィスの挑戦する姿勢が好きだった>

●さっきメル・ベイが基本的にジャズ・ギタリストと言っていましたが、レッド・ドラゴン・カーテルの「インク・アンド・ウォーター」イントロのリード・ギターにもジャズっぽい要素があります。ジャズから影響を受けましたか?

自分をジャズ・ギタリストと呼ぶつもりはないよ。でもジャズは大好きだ。62歳になると、家で聴くのは大抵ジャズやブルース、それから昔のR&Bなんだよ。父親がジャズの大ファンだったんだ。サンディエゴ最大のジャズのレコード・コレクションを持っていて、ラジオ局から声がかかって、出演することもあった。彼はラジオ局のライブラリにないレアなレコードも持っていたからね。

●どんなジャズ・ギタリストから影響を受けましたか?

ケニー・バレル、ウェス・モンゴメリー、タル・ファーロウ...ジャズ・ギタリストがブルースを弾くのが好きなんだ。ケニー・バレルの『ミッドナイト・ブルー』(1963)は名盤だよ。スティーヴィ・レイ・ヴォーンが「チトリンス・コン・カーン」をやっていたよね。俺は本格的にジャズを学ぶには至っていないから、ジャズっぽく弾くときは簡易化されたジャズ・ブルースになることが多い。“なんちゃってジャズ”なら弾けるんだ(笑)。いろんなジャズを聴いても、最後に戻っていくのはマイルス・デイヴィスだ。マイルスはトラディショナル・ジャズの殻を壊して、新しい要素を取り入れていった。ジャズ/ロックのフュージョンとかね。俺の父親はトラディショナル・ジャズが好きだったから、そんな変化を嫌っていたけど、俺はマイルスの挑戦する姿勢が大好きだったよ。俺自身、常に挑戦を続けていくつもりだ。同じことを何度も繰り返すぐらいだったら、さっさと潔く辞めるよ。...マイルスを経由して、ジョン・マクラフリンも聴くようになったんだ。彼からも多大な影響を受けたね。マハヴィシュヌ・オーケストラの『火の鳥』(1973)は俺にとってビッグなアルバムだった。今でも聴き返すし、聴くたびに衝撃を受けるよ。

●ジャズのスタイルは、自分のプレイにどんな影響を及ぼしたと思いますか?

ジャジーなプレイは、オジーやバッドランズ時代にはほとんどやらなかったけど、バッドランズのライヴではソロ・タイムとかで弾いてみたことがあると思う。ソロ・アルバム『ファイン・ピンク・ミスト』(1996)では少しだけ手を出してみたかもね。自宅だとよくジャズっぽいフレーズを弾いているよ。だから『パティナ』で弾いたのも、決して新奇なことではなかったんだ。

●何故今になって、ジャジーなプレイを弾くようになったのでしょうか?

あらゆるフィルターを取り払って、自分のハートの赴くままにプレイしたからだろうな。オジーとの活動では常にフィルターがあって、“オジーらしくない”スタイルはNGだった。バッドランズではある程度、自由があったけど、その頃はあまりジャズをやりたい気分ではなかった。レッド・ドラゴン・カーテルのファーストではプロデューサーのケヴィン・チャーコから“ファンの求めるジェイク・E・リー像”を求められた。俺が録ったデモにはファンクやエレクトロニカ的なトラックもあったけど、「アルバムの焦点がぼやける」という理由で使われなかったんだ。『パティナ』にはフィルターはなかった。アンソニー(エスポシート、ベーシスト)と俺がプロデュースして、自分自身のボスだったからね。『パティナ』で進んだ方向性は、自分でも驚いたよ。アンソニーが背中を押してくれたんだ。一風変わったリズムやコード進行も「もっとやろう」と言ってくれたんだ。

●レッド・ドラゴン・カーテルの3作目で、さらにジャズの要素が増える可能性はあるでしょうか?

どうだろうな(笑)。ジャズに接近するよりも、ファンクに接近する可能性が高いと思う。ファンク・ギターが好きなんだ。サンディエゴでの下積み時代は、あらゆるバー・バンドでギターを弾いていた。カントリー・バンドもあればフュージョン・バンド、ファンク・バンドにいたこともあったんだ。ホーン・セクションがいて、バンド全員で同じ動きをしたり、すごく楽しかったよ。俺が理想としているファンクは、ファンカデリックのアルバム『マゴット・ブレイン』なんだ。酒場にジュークボックスがあるとタイトル曲の「マゴット・ブレイン」を聴いていた。10分以上あるんで、他の客が文句を言ったりしていたよ。その直前までキッド・ロックが流れたりしていたのにね(笑)。バッドランズと『ファイン・ピンク・ミスト』ではファンキーな要素を少し取り入れたし、今後も少しずつやっていきたいね。

Jake E. Lee courtesy of M&I Company
Jake E. Lee courtesy of M&I Company

<ドン・コスタには胸クソが悪くなった>

●1982年、あなたがオジー・オズボーンのバンドに加入したとき、ベーシストはドン・コスタという人物だったのですが、彼との活動はどのようなものでしたか?彼はベースにおろし金を付けて、自分の拳をコスリつけて流血していたという伝説がありましたが...。

ドンは...うん、謎の人物だな(苦笑)。彼は良いベーシストで、しっかりとした技術を持っていた。彼とプレイするのは楽しかったよ。ただ、オジーとのツアーで、ドンと話す機会はあまりなかったんだ。ドンと俺以外はずっと年上で、イギリス人だった。だから彼とは境遇が似ていたんだ。それで会話をしようと何度も試みた。でも彼は...とにかく変わり者だったんだ。会話が成り立たなかった。「LAに着いたら、ライヴに妹を招待するんだ」と言うんで、俺が「それは良いことだね」と答えると、「妹とのフxxクは最高だぜ!」とか言い出して、どう反応していいか判らなくて困ったよ。共通の話題というものがなかったんだ。あと、こんなこともあった。子犬とか子猫は好きかと訊かれたんだ。「もちろん。可愛いよね」と答えたら、近所の犬が子犬を産んだんで何匹かもらって、ズダ袋に入れて野球のバットでめった打ちにしたと言っていた。それが本当なのか、オジーのバンドに入ってクレイジーなフリをしていたのか知らないけど、とにかく胸クソが悪くなったよ。俺が「それが質の悪い冗談であることを祈るよ。もし事実だったら、ブチのめすからな」と言うと、ドンは驚いたような困ったような表情をしていた。彼とは会話を成立させるのが困難だった。それからほとんど話さなくなった。

●ドンは結局オジーの逆鱗に触れて解雇されたという噂もありますが...。

ドンが何らかの形でオジーを怒らせたらしいことは知っているけど、詳しくは知らないんだ。ドンがオジーに強引にキッスを迫って、オジーが頭突きを食らわせたという話も聞いたし、どこまでが本当なのか判らない。でも、もしドンが俺にしたみたいな発言を続けていたら、いつか俺より怒りっぽい人間と遭遇して、酷い目に遭っていただろう。ドンが今でも生きていることを祈るよ。どうなったのか興味があるね。誰か彼の近況についてのドキュメンタリーを作ってくれないかな(笑)?

●ドンがオジーから解雇された瞬間に居合わせたそうですね?

ドンはUSフェスティバル当日(1983年5月29日)にクビになったんだ。会場まで行くバスに乗る直前まで、彼は自分が解雇されることを知らなかった。その前日、LAのバー“レインボー”で顔を合わせたけど、とてもエキサイトしていて、自分の家族を招くとも話していた。USフェスティバルは俺とドンが加入して、初の西海岸でのライヴだった。それ以前にヨーロッパ・ツアーと、ランディ・ローズが亡くなって延期になっていた東海岸の振り替え公演をやったけど、俺たちにとっては初のホームグラウンドでのショーで、しかも20万人の観衆が集まっていた。すごく気分が高まっていたんだ。会場行きのバスに乗る集合場所は、オジーの滞在しているホテルだった。俺が早めに行ったら、ボブ・デイズリーがいたんだ。たまたま西海岸に滞在していて、オジーの所に立ち寄ったのかと思った。それで自己紹介したんだ。「ジェイク・E・リーです。オジーのバンドに加入しました」ってね。そしたら「うん、一緒にやれるのを楽しみにしているよ」と言われた。ん?...と一瞬考えて、すべてに合点が行った。ああ、ドンはクビなんだなって。

●...うわぁ、キツイですね。

それから2、3分後、ドンが家族と一緒に集合場所に来たんだ。既にバスに乗っていた俺に気付いて、上機嫌で手を振っていた。そしたらシャロン(オズボーン、オジーの奥方でありマネージャー)がドンを手招きして、2人で何かを話していた。ドンの顔色がみるみる蒼白になったよ。

●ボブ・デイズリーとは初対面で、USフェスティバルのライヴをこなしたのですか?

うん、その日が初めてだった。USフェスティバル会場の近くで1回、通しリハーサルをしただけで、本番に臨んだんだ。でもボブは素晴らしいベーシストで、ライヴで演奏する曲をすべて心得ていた。俺が今までプレイしてきたベーシストの中で、彼はベストの1人だよ。

●あなたとボブ・デイズリーはオジーの『月に吠える』(1983)に参加しましたが、制作作業はどのようなものでしたか?

『月に吠える』の曲作りは、基本的にボブと俺の2人でやったんだ。それにオジーが歌メロを乗せて、ボブが歌詞を書いた。現場にドラマーはいなかったけど、ボブはリズム感が抜群で、曲のビートがどこにあるか常に判った。リズム・セクションの一角として最高なのはもちろん、メロディアスなプレイも素晴らしかった。優れたソングライターでもあったし、寛大な人物だったよ。オジーのバンド以来、ボブとはずっと会っていないんだ。いつかまた会いたいね。ボブがプロデュースしたゲイリー・ムーアへのトリビュート・アルバム(『ムーア・ブルース・フォー・ゲイリー』)は断片的にYouTubeで聴いたよ。ジョン・サイクスは良いギタリストだね。

●あなたに参加要請はありませんでしたか?もし依頼されたら、ゲイリーのどの曲をカヴァーしたいですか?

特に参加要請はなかった。まあ、ずっと疎遠になっていたし、仕方ないよ。ゲイリーの曲をカヴァーするとしたら...何だろうな。 もう100人ぐらいがカヴァーしているけど、「パリの散歩道」あたりに落ち着くかもね。ゲイリー自身が「パリの散歩道」を何度もレコーディングしているから、本人に「あと何回レコーディングしたら気が済むんですか?」と訊いたことがある。ゲイリーは「ちゃんと弾けるようになるまでだ!」と笑っていたよ。

●ドン・コスタはオジーのバンドを去った後、一時期M-80というバンドにいましたが、その後の行方は判らないのですか?

M-80『M-80』ジャケット(Megaton Records)
M-80『M-80』ジャケット(Megaton Records)

たまに知っていそうな人に「ドン・コスタってどうなったの?」と訊くけど、誰も知らないんだ。1990年代半ば、一番最近に聞いた話では、彼はゲイ・ポルノの男優になって、路上で気絶した友人の顔面に放尿していたそうだ。それが事実かは判らない。でも、あながちデタラメとも言えないよな。俺の心の中には、それが本当であることを願っている部分があるんだ。それ以来、彼の噂はまったく聞かない。音楽をやっているのかも知らないよ。

【JAKE E LEE'S RED DRAGON CARTEL PATINA Japan Tour 2019】

- 4月17日(水)渋谷クラブクアトロ

開場18:00/開演19:00

- 4月18日(木)梅田クラブクアトロ

開場18:00/開演19:00

- 4月19日(金)名古屋クラブクアトロ

開場18:00/開演19:00

●ジャパン・ツアー公式ウェブサイト

http://www.mandicompany.co.jp/RedDragonCartel.html

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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