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【インタビュー後編】JAPANESE ASSAULT FEST記念/ザ・ロッズが語る初期スラッシュ

山崎智之音楽ライター
Carl Canedy / Pic by Takumi Nakajima

2018年11月3日(土)&4日(日)、東京・吉祥寺 CLUB SEATAで開催されるヘヴィ・メタルの祭典『JAPANESE ASSAULT FEST 18』を記念して、前年の『JAPANESE ASSAULT FEST 17』でヘッドライナーを務めたザ・ロッズのカール・キャネディへのインタビューを公開する。

全2回の後編となる今回は、初期スラッシュ・メタルに深く関わったプロデューサーとしてのカール、そしてザ・ロッズの今後などについて訊いた。

<カール・キャネディの発音>

●あなたの名字Canedyはどう読むのでしょうか?

キャネディだよ。よく大統領と同じケネディと発音されるけど、それは正しくない。どちらも元々はアイルランド系の名前らしいけどね。ケインディでもないよ、念のため。

THE RODS / Pic by Takumi Nakajima
THE RODS / Pic by Takumi Nakajima

<スラッシュ・メタル黎明期とアンスラックス>

●ザ・ロッズで活動を始めたとき、ハード・ロック/ヘヴィ・メタルの新しいムーヴメントが起こっていると意識していましたか?

いや、全然(笑)。ザ・ロッズを始めた頃、アメリカの音楽マスコミは俺たちのことを無視していた。最初に注目したのはイギリスのマスコミだったんだ。当時、俺たちはモーターヘッドを知らなかったけど、“アメリカ版モーターヘッド”と書かれていて、何のことだろう?...と思った。その後、ジョニーZ(ジョン・ザズーラ)や奥さんのマーシャと知り合って、彼らがやっているレーベル『メガフォース・レコーズ』のリリースをプロデュースするようになったんだ。彼らの紹介で、いろんなバンドと仕事をするようになった。アンスラックス、オーヴァーキル、エキサイター、T.T.クイック...若いバンド達がダムを決壊させて、世界に殴り込みをかけようとしているのを感じた。スラッシュ・メタルは、時代の衛兵交替だったんだ。ザ・ロッズはスラッシュより一世代前のメタル・バンドだったけど、彼らの精神は理解できた。

●アンスラックスと出会ったとき、彼らの成功は予感していましたか?

俺がプロデュースしたアンスラックスの作品は『フィストフル・オブ・メタル』(1984)、EP『アームド・アンド・デンジャラス』(1985)そして『狂気のスラッシュ感染』(1985)だった。アンスラックスのデモを聴いた瞬間、彼らのミュージシャンシップとソングライティングのレベルの高さが伝わってきたよ。ただ、俺の友達は「最悪だ」と言っていた。「虫ケラの音楽」だってね(苦笑)。旧世代の人間には、何が何だか判らなかったんだ。彼らは恐れてすらいた。それでも一部のミュージシャンはすごく刺激を受けて、情け容赦のない新しい音楽をプレイするようになった。それがスラッシュ・メタルだったんだ。

●アンスラックスの作品をプロデュースするにあたって、あなたの役割はどんなものでしたか?

彼らはまだ若かったし、スタジオ作業に慣れていなかったんで、俺の仕事は彼らをスタジオで導くことがメインだった。彼らは頭が良くて、すぐに順応したよ。音楽面ではアレンジに少し口を出した程度だった。彼らはそれまで誰もやったことがなかった、エクストリームで荒っぽくて、それでいてメジャー感のある音楽を生み出したんだ。

●アンスラックスはどんなバンドでしたか?

アンスラックスは才能と情熱にあふれた若者たちで、自分たちの信じる道を信念を持って

進んでいた。レーザー光線のように照準を絞っていたんだ。最初のツアーから戻ってきて、彼らはバンドを強化させることを決断した。ダン・リルカーが去ってフランク・ベロが加入して、ニール・タービンが去ってマット・ファロンが加入した。そうして新しいアルバムの曲作りに入ったんだ。ただ1週間ほどの作業を経て、マットがメジャー・レーベル作品に向かないことは明らかだった。バンドはジョニーZに電話して、会議を持つことになった。それで10分後、俺に電話がかかってきたんだ。アルバム作りの真っ最中で、スタジオ代がかかっていた。それなのにジョニーは「マットをバスに乗せて帰せ」と決断したんだ。こいつら、本気で覚悟を決めているな!...と思った。彼らには勇気があったんだ。

●アンスラックスの新シンガー、ジョーイ・ベラドンナはどのようにして見つけたのですか?

俺の友人のダック・マクドナルドの紹介だよ。ダックはニューヨークのギタリストで、シェイキン・ストリートというバンドにいたこともある。ロス・ザ・ボスがマノウォー結成前に在籍していたバンドだよ。ダックが「良いシンガーを知っている。連絡してみなよ」と電話番号を渡してくれたのがジョーイだった。ジョーイが加入したことで、アンスラックス・サウンドが確立されたんだ。

●スコット・イアンもチャーリー・ベナンテも『フィストフル・オブ・メタル』の極悪なアルバム・ジャケット・アートワークについて「あれは俺のせいじゃない。プロデューサーが悪い!」と話していましたが、あなたがあのアートワークを選んだのですか?

Anthrax『Fistful Of Metal』ジャケット/courtesy of Megaforce Records
Anthrax『Fistful Of Metal』ジャケット/courtesy of Megaforce Records

自分の名誉に懸けて言うけど、あのジャケットとはまったく関係ないよ!誰かがあのアートワークを持ってきて、いつの間にかジャケットにすることが決まっていたんだ。俺も最悪だと思ったけど、チャーリーが描いたと勘違いしていて、まあメンバー自身がアレで良いなら仕方ないか...と考えていた。俺の知らないうちに決まっていたんだ。俺の役割はサウンド面のプロデュースで、ジャケットには関わっていなかった。ただ、あのジャケットをすごく気に入っているファンも世界中にいるんだよ。バンドのダーティーなサウンドをうまく表しているってね(苦笑)。

●『狂気のスラッシュ感染』ジャケットに貼られたステッカーに“このアルバムには1曲たりともヒット・シングルは収録されていません”と書いてありましたが、それは誰のアイディアでしょうか?

ジョニーZだよ。当時(1985年)、メタル・バンドがやたらとパワー・バラードをやり始めたことに対する反動だったと思う。ラジオ局やMTVでオンエアしてもらうために陳腐なパワー・バラードをやるバンドがたくさんいたんだ。でもアイアン・メイデンやアンスラックスはメインストリームに尻尾を振らなかった。同じく『メガフォース』からアルバムを出したT.T.クイックも、誰の尻にもキッスしなかったよ。それでもシンガーのマーク・トルニーロは今でもアクセプトで素晴らしい仕事をしているし、俺のソロ・アルバム『Headbanger』(2014)でも歌ってくれた。結局、その場しのぎで妥協するより、自分の信じる道を歩んだ方が長続きするんだよ。

THE RODS / Pic by Takumi Nakajima
THE RODS / Pic by Takumi Nakajima

<スラッシャー>

●1985年のオールスター・プロジェクト“スラッシャー”はどのようにして実現したのですか?

俺とダック・マクドナルドが核となって、プロデュースなどで関わってきたミュージシャン達と共演するアルバムを作ってみたかった。俺が若かった頃、マイク・ブルームフィールドが参加した『スーパー・セッション』というレコードがあったんだ。それのメタル版をやりたかったんだよ。ビリー・シーンのベース・プレイは素晴らしいし、エキサイターのダン・ビーラー、T.K.O.のブラッド・ティンゼル...あのアルバムは、曲も良かったと思う。ダックと俺がすべての曲を書いたんだ。とにかく忙しくて、スタジオで録音する数分前に書いた曲もあったよ。参加ミュージシャンのスケジュール調整やパートの割り振りなどけっこう大変だったけど、同志が集まって、とにかく楽しかった。アルバム『スラッシャー Burning At The Speed Of Light』はオリジナル・テープをデジタル化して、リミックスして再発するつもりだよ。

●あなたは東海岸を中心にプロデューサー活動をしていましたが、西海岸でもスラッシュ・メタルが勃興していることは知っていましたか?

だいたいリアルタイムで耳にしていた。メタリカは『キル・エム・オール』(1983)を東海岸でレコーディングしたしね。あのアルバムのエンジニアを務めたクリス・ビューバッチは俺のルームメイトで親友だった。クリスは実はスラッシュ・メタルを嫌いだったんだ。後にスパイロ・ジャイラのエンジニアになったほどだからね。でも彼は俺に電話してきて、「あのメタリカってバンドには何かスペシャルなものがあるよ」と興奮していた。その時点で俺は『キル・エム・オール』を聴いていなかったけど、クリスの口ぶりに尋常ならざるものを感じたよ。

●1980年代のスラッシュ・メタルを総括すると?

エキサイティング、その一言だったよ。まさに衛兵交替の時代だったんだ。何かが大きく変わろうとしていた。ただ、その変動がどの程度の規模のものか、見当も付かなかったんだ。一過性の、局地的なものかも知れなかった。でもスラッシュ・メタルは世界的な現象となって、30年以上が経つ今日でも生き続けている。凄いことだよ。ある現象の真っ只中にいると、自分では気がつかないものなんだ。俺はアンスラックスやオーヴァーキルの作品をプロデュースして、歴史を作っている感覚はなかったし、“シーン”の一部だとも考えていなかった。ザ・ロッズがメタルの“新しい波”の一部だという意識もなかった。そういうのは後になって、外部の人たちが評価することなんだ。

THE RODS / Pic by Takumi Nakajima
THE RODS / Pic by Takumi Nakajima

<ザ・ロッズ復活から『JAPANESE ASSAULT FEST 17』参戦への道>

●ザ・ロッズは1986年にアルバム『Heavier Than Thou』を発表した後、“キャネディ・フェインステイン・ボードナロ&コードル”名義でアルバム『ハリウッド』を発表して解散しましたが、何故ザ・ロッズ名義を使わなかったのですか(日本盤LPは“ザ・ロッズ・プロジェクト”名義でリリースされた)?

その頃、ザ・ロッズは勢いを失っていたんだ。マネージャーもいなかったし、デヴィッドも俺も従来のザ・ロッズとは異なったスタイルの曲を書くようになった。『ハリウッド』にはザ・ロッズのメンバー全員が参加していたけど、ザ・ロッズ名義で発表したらファンが混乱すると考えたんだ。

●ザ・ロッズが活動休止した後、あなたはどんな活動をしていたのですか?

プロダクション・カンパニーをやっていて、いろんなバンドを手がけていたよ。それは今でも続いていて、ザ・ロッズをやっていない時は誰かをプロデュースしている。

●ザ・ロッズが再結成したのは、どんな経緯があったのですか?

実際にはバンドが解散したことは一度もなかったんだ。ただ3人とも他の仕事が忙しかったし、まとまったツアーをやる時間もなかった。でも仲違いしたわけではないから、ヨーロッパのフェスに呼ばれるようになって、何度かザ・ロッズとしてステージに上がった。そうしてバンドとしての絆を取り戻して、ニュー・アルバム『ヴェンジャンス〜復讐の日』を発表したんだ。

●2011年に『ヴェンジャンス〜復讐の日』を発表してからはどんな活動をしてきましたか?

ザ・ロッズは主にライヴ活動をしていたよ。俺はペンシルヴァニア州スクラントン在住で、他の2人はニューヨーク州コートランドに住んでいる。自動車で1時間15分ぐらいだし、リハーサルでも集まりやすいんだ。それでニューヨーク周辺で単発のショーをやったり、ヨーロッパやブラジルをツアーしたよ。それからファースト・アルバムの35年を記念して「クランク・イット・アップ」をセルフ・カヴァーした(2015年)。俺はソロ・アルバム『Headbanger』(2014)を出したし、デヴィッドもソロ・アルバム『Hail And Farewell』(2017)を発表している。デヴィッドのアルバムは、いとこのロニー・ジェイムズ・ディオへのトリビュートで、彼の視点から見たロニーの物語なんだ。いろんなゲストが参加していて、俺もドラムスを叩いている。ラストの曲は「You Are My Hero」というもので、デヴィッドの娘さんのエレノアが歌っている。怖くなるほどビューティフルなんだ。さらに俺はソロ・プロジェクト、キャネディとしても新しいアルバムに着手していて、曲を書いて、ドラム・トラックを録っているところだ。あとはザ・ゴッズ(The Godz)へのトリビュート・アルバムで「Gotta Keep A Runnin'」をレコーディングした。最高にケツを蹴り上げるヴァージョンだよ。常にいろんな作品に参加しているんだ。音楽を止めたことは一度もないんだよ。 

●ミュージシャンとプロデューサーの両方で大忙しですね。

うん、モーターヘッドのレミーが亡くなったときT.K.O.のメンバーと俺で「エース・オブ・スペイズ」をレコーディングした。それからセント・ジェイムズのアルバム『Resurgence』(2016)でもドラマーとして参加したし、キレン(Killen)のアルバムも作っている。ジョン・ハーンの『アウト・オブ・ザ・シャドウズ』(1993)でプレイしたけど、彼の新しいアルバムでもプレイすることになっているんだ。あと幾つかプロジェクトに誘われているし、時間の許す限り参加したいと考えている。さらに1970年代にやっていたケラコス(Kelakos)としての新曲、そして過去の音源を加えた新装盤も出す。ホーム・スタジオも建てたんだ。規模は小さいけど、最高のサウンドだよ。朝起きて、すぐにスタジオに入って数時間レコーディング出来るのは良い気分だ。気分が良いと、そのぶん良いアイディアが浮かぶんだよ。10年ぐらいホーム・レコーディングをしてきたけど、機材が揃っていなかった。これまで経験のなかった贅沢だ。それから、ちょっと前にはブラック・タイ・ステレオという地元の若手バンド、それからヤング・タークというバンドもプロデュースした。プロデューサーとしても忙しいんだ。最近はヘルド・ホステージというバンドのアルバム『Show Me The Way Back Home』(2017)をプロデュースした。ジョー・リン・ターナーが歌っているよ。

●ジョー・リン・ターナーも東海岸(ニュージャージー)出身のシンガーですが、地元で面識はありましたか?

いや、ジョーと知り合ったのは1980年代初め、ザ・ロッズがレインボーのツアー・サポートをしたときだった。それ以前から彼はニューヨーク・シティでバンドをやっていたけど、俺たちはニューヨーク州の北部出身だから、ライオットとかと同様に、接点がなかったんだよ。彼は素晴らしいシンガーだし、俺のフェイヴァリットの1人だ。

●ザ・ロッズとしての新作を作る予定はありますか?

既に曲は書いていて、ラフなドラム・トラックを録り始めているんだ。日本公演の後、本腰を入れてレコーディングする。『Louder Than Loud』というタイトルで、すごく良いアルバムになると確信しているし、俺自身がエキサイトしているよ。アルバムを出したら、また日本でプレイしたいね。日本のファンは熱意があって、それでいて礼儀正しいし、素晴らしい文化を持っている。初めてこの国を訪れるまでに時間がかかってしまったけど、これから頻繁に来たいと考えているよ。

THE RODS / Pic by Takumi Nakajima
THE RODS / Pic by Takumi Nakajima

●SPIRITUAL BEAST PRESENTS: JAPANESE ASSAULT FEST 18

2018年11月3日(土)・4日(日)/東京・吉祥寺CLUB SEATA

11/3 (Sat) “THRASH METAL DAY”

FLOTSAM AND JETSAM (USA)

VIOLATOR (BRAZIL)

UNITED (JPN)

IN FOR THE KILL (JPN)

AMKEN (GRC)

11/4 (Sun) “HEAVY METAL DAY”

TYGERS OF PAN TANG (UK)

ASOMVEL (UK)

SOLITUDE (JPN)

SCREAMER (SWE)

HELL FREEZES OVER (JPN)

Info: Spiritual Beast / スピリチュアル・ビースト

http://spiritual-beast.com/

JAPANESE ASSAULT FEST 18 flyer / courtesy of Spiritual Beast
JAPANESE ASSAULT FEST 18 flyer / courtesy of Spiritual Beast
音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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