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先手でも後手でもない「禁じ手」~なぜいま、緊急事態対処法がダメなのか

山田健太専修大学ジャーナリズム学科教授
(写真:ロイター/アフロ)

 3月10日、政府は改正新型インフルエンザ等特別措置法案を閣議決定した。同法案は、新型コロナウイルス肺炎に対処するための現行法の改正であるが、法律の中身には一切変更はなく、いわゆる緊急事態対処法そのものである。こうした法制度は、戦時や未曽有の大災害などを想定して作られているもので、すでに日本においてもいくつか存在する(武力攻撃事態対処法や災害対策基本法など)。人の命がかかっている特別な緊急事態を前に「できることから何でもやる」のが正解だとの声が強いが、現時点で緊急事態法は不要であるし、将来にわたってもデメリットが大きすぎて適用すべきではない。以下、その理由を述べる。

●前提となる情報の開示がない

 緊急事態法制の一般的特徴は、中央集権と私権制限の2つだ。そして今回の改正パンデミック対処法もまったく同じである。前者は、行政の長(日本でいえば首相もしくは自治体の長である知事)が「緊急事態」と認定すれば、宣言を発することで、立法府(国会や地方議会)を通すことなく、法律同等の強力な権限行使が可能になる。さらにいえば、通常の行政手続きもすべて省略し、首相(官邸)が決めれば事実上、なんでもすぐに実行可能になるということだ。

 こうした事態になるといかに危ういかは、現在の政権がまさにいま証明してくれている。2月28日の学校閉鎖が専門家の知見に裏打ちされているものではなく、自身の「政治判断」であると自らが明らかにしている(3月2日参院予算委員会での安倍晋三首相答弁「直接専門家の意見を聞いていない」)。しかも、その最終決定をした議決機関である「連絡会議」は、議事録が存在しないという。そもそも、判断のベースになっているとされる専門家会議も議事録がないことが明らかになっている。

 東日本大震災の際の原発事故対応などの会議録がないことが当時問題になったが、その時とは切迫度が全く異なる。むしろ緊急事態がゆえに記録し損ねたのではなく、最初から「記録に残さない」という意思が透けて見える対応だ。それは、専門家会議の議事録がないことを追及され、言い訳として「休日で速記者の手当てがつかなかった」と言うに及んでいるからだ(3月2日参院予算委員会での加藤勝信厚労相答弁)。大臣にしても、その答弁を用意した官僚についても、行政中央官庁としての矜持も恥もない対応であって、これは政権の姿勢と言わざるを得まい。

 このように、あとで検証が可能な環境を作らず、しかも専門的知見に裏打ちもなく、(政治主導と言えば聞こえはいいが)官邸主導で恣意的な判断をする環境を整備するということが、どのような意味を持つかを考える必要がある。こうした緊急事態対処が現在の民主主義社会で許容される前提は、情報公開制度が完備されていて、すべての意思決定が記録され、平時に戻った際には事後的に全て公開され検証できることが完全に担保されていることだ。

 現政権は既にこの数年間で、そうした条件をことごとく破壊してきた実績がある。公文書の隠蔽・改竄・破棄の黒歴史だ。その上、前述したとおり、今回の一連のコロナ禍においても同様の体質を存分に発揮してきている。こうした政権が緊急事態宣言を発布し、好きなことを自由にできるというのは「悪夢」以外の何物でもない。現政権には、緊急事態宣言をする(あるいは緊急事態法を運用する)資格はないということになる。

 ちなみに菅義偉官房長官は、東日本大震災当時、民主党政権が原発事故等対応の会議での議事録を作成していなかった件に関し、厳しく批判、「議事録も作成しなかった『誤った政治主導』」とのタイトルのブログ(2012年1月28日付)が話題になった。きっかけは、今回の新型コロナではなく、加計学園問題に絡めて公文書問題をめぐる官房長官記者会見で、過去の著書の記述が問題視されたことがきっかけであった(2017年8月8日)。ブログでは、「政府があらゆる記録を克明に残すのは当然で、議事録はその最も基本となる資料です。それを作成していなかったのは明らかな法律違反であるとともに、国民への背信行為です」としており、ブーメランで返ってきた状況だ。

●恣意的な移動制限が可能

 これだけでも十分ではあるが、緊急事態法制のもう1つの特徴である私権制限についても触れておきたい。具体的には、外出禁止や集会・催事の禁止などが想定されているが、これらは言わずもがなであるが、憲法で絶対的に保障されている「移動の自由」を全面的に制限するものだ。海外のニュースでたまに、「戒厳令」という言葉を見ることがあるが、実態としては全く同じもので、言葉が少しオブラートに包まれているだけだ。

 日本はすでに、この移動の自由が政府の恣意的な判断で、制約されやすい国の1つである(拙稿「移動の自由~国が本人意思を認めないとき」東京新聞2020年2月13日付)。こうした現在の環境を考えると、さらに自由な判断権限と、強力な制限内容を可能にすることは、極めて重大な人権侵害を生む危険性が格段に高まる。これは直接的に憲法に抵触する問題だ。この意味でも、現政権には緊急事態法の運用資格がないことになる。

 具体的などのような制限があるのか確認しておこう。1つは、カルロス・ゴーン元日産社長の逮捕後の扱いを巡って改めて議論になった人質司法と呼ばれるような、警察・検察による身柄拘束の自由である。国家による拘束の自由というと独裁国家のように聞こえるが、まさに今の日本で普通に行われていることであって、代用監獄や弁護人なしの取り調べなどについては、国連など国際機関からは度重なる改善勧告が出されているところである。

 あるいは、パスポート(旅券)の発給も、外務大臣(および法務大臣)の判断次第というのが現状だ。トルコからの入国を拒否されたジャーナリストが(その拒否自体も確たる証拠が示されているわけではない)、その国への渡航制限をかけられるのならまだしも、海外への渡航の自由を一切認めないことになるパスポートの発給拒否がなされている。あえて言えば、政府の好き嫌いで移動の自由が制約されている事例だ。

 その他の私権制限の想定は、営業の停止や、所有物の没収などが考えられる。ただしこれらは、わざわざ大仰に私権制限というのではなく、必要に応じて個別に現行法で行えることが多い。ノロウイルスが発生すればレストランやホテルを営業停止にするなどの延長線と考えられるからだ。しかもこれらは、専門機関の明確なエビデンスが必要なことは言うまでもない。政治判断でこれらを強制的に行うというのは、あってはならない(拙稿「新型コロナウイルス 私権制限のリスク大」琉球新報)。

●厳しい集会規制の違憲性

 特措法は、最大2年にわたる厳しい集会規制を含むものである。このような自由の制約を行いうるのは、緊急事態宣言がなされた場合であるが、その宣言は、政府対策本部長が公示し、公示した事実とその内容を国会に報告するのみで効力を生ずる。表現の自由の制約という重大な権利制限を、立法府による承認もなく行政府が自由に行えるということだ。しかも前述したように、いまでさえ一連の施策に関する意思決定の記録が存在しない状況があり、さらなる強力な権限行使が密室で行われる可能性が高まっている。

 さらに同法は緊急事態の定義について、インフルエンザ等「国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれ」(32条1項)が国内で発生、蔓延し「国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼすおそれ」(32条1項)がある場合と規定する。これらの文言は極めて多義的であり、対象の明確化や自由を制約することが必要であるとの明確なエビデンスが示されていないなかで、制限のみが先行されることがないとはいえない。

 ちなみに、世界保健機関(WHO)事務局長が3月3日に示した見解によれば、新型コロナウイルスの感染力は、季節性インフルエンザに比して高くないという。季節性インフルエンザの場合には集会が規制されないにもかかわらず、これより感染力が低いといわれる新型コロナウイルス感染症は、集会を開催することにより人の生命や健康を侵害する高度の危険が認められ、その危険を回避するために集会の開催を制限する以外に方法がないとは言えないはずである。それにもかかわらず、危険の内容や他に取りうる方法の有無について何ら具体的に論証されないまま特措法の適用範囲を拡大し、集会の自由を制約することは許されない。

 そもそも、特措法の対象となる感染症の要件は、罹患した場合の重篤症例の発生頻度が、インフルエンザにかかった場合に比して相当程度高いと認められるもの(特措法施行令6条1項)となっている。しかし日本においては、罹患が疑われる事例であっても、重症化しなければ検査を行わないという措置がとられおり、患者数における重症化率を正確に把握できていない。これでは、新型コロナウイルス感染症が特措法上記の要件を満たしているかも不明ということになってしまう。

 話をもう一度集会制限に戻そう。新型インフルエンザ等緊急事態宣言(以下「緊急事態宣言」)のもと、都道府県知事が、施設管理者や当該施設を使用して催物を開催する者に対し、施設の使用の制限や催物の開催の制限等を要請できるようになる(特措法45条2項)。要請に従わない場合には、さらに強力な措置として「指示」をすることもできる(同条3項)。これは、憲法で保障されている集会の自由に対する制限である。

 このような一律規制によって、十分な感染予防策がとられた集会や、当該措置の検証を目的としたような集会まで、一律に規制される可能性が生じる。また、それらを適用除外するとなれば、その判断は庁の恣意的な判断に委ねざるを得なくなり、憲法の趣旨に基づく市民の自由意思に基づく集会・言論活動が公権力の判断で左右されるという事態を招くことになる。

 もし何らかの対応をとるのであれば、感染疑いのある市民に対し、適正迅速に検査を実施し、罹患が認められた者に対して、感染症法に基づき外出制限等を行う(感染症法6条9項、50条の2第2項)等、より制限的でない規制が可能であると考える。この点においても、表現の自由の一形態である集会の自由や移動の自由の規制条件を満たしてないことがわかる。

●前のめりの法適用は危険が大きすぎる

 後先になるが、改正法について簡単に確認しておこう。

 安倍首相は3月に入り、新型インフルエンザ等特別措置法(2012法31)を改正し、新型コロナウイルス肺炎を対象に含め、緊急事態宣言と私権制限をスムーズに実施できるよう、いわゆる緊急事態対処のための法整備をする意向を示した。そして冒頭に述べたとおり、法案を10日に閣議決定し、早ければ13日には新パンデミック対処法あるいは新型肺炎緊急事態法の誕生ということになる。野党の協力が得られる見通しも立っていると伝えられている。

 2012年に成立した新型インフル特措法を、早期に適用すべきという意見は自民党内にもあったが、当時、野党であった自民党が成立に反対した経緯などもあり、新法(改正法)による対応にこだわった形だ。全会一致で成立した法に対しては、いざ緊急事態宣言などを実施する場合などに、野党が反対しづらいことを踏まえた対応ともみられている。

 2月末以降、それまでとは一転して、前のめりの「政治判断」による政策発表と実施が続いている。これらについては、十分なエビデンスを示すことなく、また事前の準備も不十分なまま、トップダウンで新しい行政措置が取られることへの批判がすでに数多く示されているが、ここではその点については個別には触れず、もっぱら法律の問題点と運用の危険性について指摘をしてきた。

 なお、日本は各自治体の権限が限定的で、制度上は東京(中央政府)集権型の組織で運用されている国家である。憲法上では政府と自治体は同等であるとされているし、その方向で地方自治法も改正されてきた経緯があるが、沖縄の辺野古新基地建設の国(防衛省)vs沖縄県の一例からも、地方自治体の権限は最小化されているといってよかろう。

 しかし一方で、町村に至るまできっちりした行政機関の運営がなされており、それゆえに国は自在に業務の委任ができる構造になっている。東日本大震災の例からみても、日本の場合は、可能な限り現場(地方)に権限を委譲し、フレキシブルに対応することができる、あるいはした方がよい場合が多かったのであって、その意味からも中央集権の最たる緊急事態法制はそぐわないということになる。

 次の記事では、法適用すべきでない理由として、表現の自由の観点から説明する。

(追記)3月12日に誤植を訂正。

専修大学ジャーナリズム学科教授

専修大学ジャーナリズム学科教授、専門は言論法、ジャーナリズム研究。日本ペンクラブ副会長のほか、放送批評懇談会、自由人権協会、情報公開クリアリングハウスの各理事、世田谷区情報公開・個人情報保護審議会会長などを務める。新刊に『「くうき」が僕らを呑みこむ前に』のほか、『法とジャーナリズム 第4版』『ジャーナリズムの倫理』『愚かな風~忖度時代の政権とメディア』『沖縄報道』『放送法と権力』『見張塔からずっと~政権とメディアの8年』『言論の自由~拡大するメディアと縮むジャーナリズム』『ジャーナリズムの行方』『3・11とメディア』『現代ジャーナリズム事典』(監修)など。東京新聞、琉球新報にコラムを連載中。

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