【光る君へ】藤原道綱は、無能で仕事ができない男だったのか
今回の大河ドラマ「光る君へ」は、藤原道綱が「まひろ(紫式部)」に求愛しようとしたところ、間違えて「さわ」の寝床に忍び込むという失態を犯していた。
道綱は憎めないキャラだが、無能で仕事ができない男だったといわれている。それが事実なのか、考えてみよう。
天暦8年(954)、藤原兼家は道綱の母と結ばれ、その翌年には子の道綱が誕生した。とはいえ、すでに兼家には正室の時姫という妻がおり、2人の間には嫡男の道隆が生まれていた。その後、時姫は道兼、道長と次々と子を産んだ。側室の子より、正室の子が優遇されるのは当たり前だろう。
寛和2年(986)6月、花山天皇が出家した際、道兼が主導的な役割を果たしたが、道綱は兄の道隆とともに、神璽などを東宮御所に運んだ。その功により、道隆は五位蔵人に叙位任官された。
その後、道綱は昇進を果たしたものの、弟の道長に先を越されることになった。それは、道長が弟とはいえ、兼家と正室の時姫の子だったことも影響しているだろう。
道綱の母も兼家との関係がうまくいっておらず、その事実は『蜻蛉日記』に書かれている。道綱の昇進が遅かったのは側室の子だったということもあるが、その能力にも問題があったようである。
『蜻蛉日記』によると、道綱は非常におっとりした性格で、大人しかったという。実の母から見ても、道綱は少し頼りないように見えたのかもしれない。
というのも、公家社会は安穏とした世界ではなく、生き馬の目を抜くような厳しさがあった。ぼんやりしていては、とても昇進などかなわなかったのである。
また、藤原実資は道綱について、無知であるとか、40歳を越えても自分の名前に使用されている漢字しか知らなかったなどと手厳しい評価をしている。
ただ、これはちょっとばかり言いすぎな面があって、さすがに漢字を知らなかったとはいえないだろう。というのも、道綱は勅撰集に和歌が入集するほどの腕前で、豊かな教養を持っていたのが明らかだからである。
実資が憤慨したのは、昇進で道綱に抜かれたことにあった。それは、藤原一族が権勢を振るっていたので、そのことに対する怒りでもあった。ところで、道綱は大納言に昇進したが、ついに大臣になることはなかったのである。