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【光る君へ】「清少納言」と名付けたのは、中宮定子だったのか? その諸説を探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
清少納言。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」は、「ききょう」が中宮定子に仕える場面だった。定子は「ききょう」に面会した際、「清少納言と名乗りなさい」と言っていた。この辺りがどうだったのか、考えることにしよう。

 平安時代における女性の名前は実に難しい。テレビドラマでは、ふさわしそうな役名を付けているが、実際はどうだったのかわからないことのほうが多い。清少納言もその1人である。

 今回のドラマでは、先述のように定子が「ききょう」に「清少納言と名乗りなさい」と言い、名付け親になっていた。「ききょう」の父は清原元輔なので、「清」が「清原」の略なのは自明のことである。

 では、どのような説があるのだろうか。

①定子が名付け親だったという説

 しかし、清少納言の親族に「少納言」の官職を持つ者がいなかったので、それが問題だった。そこで、後世に成った「女房官品」の記述に基づき、例外的に中宮定子が清少納言と名付けた可能性があるという。

②先祖の官職説

 かつて、藤原定家の娘因子は、後鳥羽院から先祖の長家の官職にちなんで、「民部卿」の女房名を与えられたという。この例を参照して、清少納言の少納言は、清原氏の先祖で少納言だった清原有雄にちなんで、名乗ったという説がある。

③元結婚相手の説

 先述のとおり、女房名に親族の官職が用いられるのは普通のことなので、関係する人物を探した。その結果、清少納言は少納言だった藤原信義(元輔の子)とかつて婚姻関係にあり、それにちなんで清少納言と名乗ったという説がある。

④義母の名前説

 さらに、清少納言の夫の橘則光の母右近尼の別名は、花山天皇の乳母の少納言乳母だったという。つまり、清少納言は、義母の名乗りにちなんでいるという説である。

 このように、清少納言の名乗りについては諸説あるが、残念ながら決定打があるわけではない。このように女性の名乗りをめぐって論争になることは、決して珍しいことではないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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