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織田信長の妹のお市の方は北庄城で自害せず、生き延びていたという説の真偽

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
柴田勝家像。(写真:イメージマート)

 今も要人が暗殺されることがあるが、実は生きていたという風聞が流れることも珍しくない。天正11年(1583)4月14日に北庄城(福井市)が落城した際、お市の方は夫の柴田勝家とともに自害したといわれている。しかし、お市の方は死なず、生き延びたという異説があるので検証しておこう。

 天正10年(1582)6月、織田信長は配下の明智光秀に宿所の本能寺を襲撃され、自害して果てた。その後、織田政権の主導権をめぐって、羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家は争うことになった。しかし、勝家は盟友の前田利家の裏切りなどもあり、敗色が濃くなった。こうして戦いの舞台は、北庄城に移ったのである。

 先述のとおり、天正11年(1583)4月14日に北庄城(福井市)が落城した際、お市の方は夫の柴田勝家とともに自害した。これが通説である。

 その際、娘の茶々、初、江は城からの脱出に成功した。なお、西光寺(福井市)にはお市の方と勝家の墓碑があり、茶々と江は養源院(京都市)に供養塔を建立した。今のところ、お市の方が自害したというのが通説である。

 ところが、稲増家(三重県伊賀市)には、お市の方が生き延びたという異説が伝わっている。その異説によると、いよいよ北庄城が落城を迎えようとしたとき、忍者の浅井治部左衛門が城に配下の者を従えて入城したという。

 そして、落城の混乱に乗じてお市の方を脱出させ、怪しまれないように侍女を替え玉にして、自害させたというのである。なお、浅井治部左衛門は、お市の方の夫だった浅井長政の一族だったという。

 治部左衛門は稲増家の始祖であり、もともとは浅井家に仕えていたという。しかし、浅井家が天正元年(1573)に滅亡すると、その子孫はやがて「日比」、「稲増」と姓を改めた。享保年間以降、治部左衛門の子孫は藤堂家に仕官し、伊賀忍術の皆伝を授けられたと伝わっている。

 その後、お市の方は各地で潜伏生活を送り、下友田(三重県伊賀市)で晩年を過ごし、慶長4年(1599)に亡くなったというのである。稲増家には、お市の方の死後、切り取られた喉仏が伝わっているという。とはいえ、以上の話を裏付けるたしかな史料はない。

 つまり、お市の方が生き延びたというのは、歴史ロマンとしては非常におもしろいが、今のところは史実として認められないということになろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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