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本能寺の変後、織田信長の焼死体は誰かに持ち去られたのか。その謎を考える

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 春も近いというが、連日のように火事が報道されている。ぜひ、お気を付けいただきたい。天正10年(1582)6月2日、織田信長は明智光秀に宿所だった本能寺を襲撃され、無念にも自害して果てた。

 その後、本能寺は炎に包まれたので、信長の遺骸は発見されなかったと考えられる。とはいえ、信長の焼死体は、誰かに持ち去られたという説もあるので、検討することにしよう。

 信長が本能寺に泊まったとき、まったく油断していたようだ。そもそも大軍勢を率いていなかったので、光秀はそれを知ってチャンスと考えたのだろう。

 『信長公記』などによると、信長は敵兵と戦っていたが、やがて奥の間に場所を移し、そのまま自害して果てたという。光秀は懸命に信長の遺骸を探したと考えられるが、見つかったという記録はない。

 フロイスはその著『日本史』の中で、信長は炎で完全に燃え尽き、その骨すら残らなかったと書いている。しかし、これはフロイスが実見したものではなく、自分の考えを述べたに過ぎないだろう。

 現実の問題として、信長以外にも焼死した者がいたうえに、黒こげの焼死体から信長を判別するのは不可能だったに違いない。信長の死体が見つからなかったというよりも、わからなかったというのが実情だろう。

 しかし、光秀は信長の焼死体が見つからなかったので、きっと恐怖したことだろう。ただちに京都市中を封鎖したのは、信長の配下の者を討ち取るという目的のほか、万が一でも信長が生きて逃げた場合のことを想定してのことだろう。

 信長が生きていた場合、光秀が劣勢に追い込まれるのは明らかだからである。『兼見卿記』などの日記を見ると、信長が死んだのは明らかであり、もちろん信長が生き延びたという記録もない。

 ところで、天正10年(1582)9月12日、阿弥陀寺(京都市上京区)の清玉上人は、信長とその子の信忠の百日忌を執り行った(『言継卿記』)。

 阿弥陀寺はもともと清玉が坂本(滋賀県大津市)に創建したが、信長の帰依を受けて、京都市中に移転したという。それゆえ、阿弥陀寺には信長の墓がある。

 『雍州府志』には、信長が自害したとき、清玉は本能寺の焼け跡に向かい、骨などの灰を集めて寺に葬ったと書かれている。その中には、信長が着用していた衣服の灰も混じっていたという。

 『信長公阿彌陀寺由緖之記録』には、信長の死骸を配下の者が焼いて灰にし、それを清玉が弔うべく、寺に持ち帰ったと記されている。信長は「敵に首を渡すな」と遺言したという。

 それらが史実か否かといえば、非常に難しいが、清玉が本能寺の焼け跡で灰を集め、それを信長の遺骸の代わりに持ち帰ったというのは信じてもいいのではないだろうか。いずれにしても、信長の遺骸は見つからなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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