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2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の主人公、羽柴秀長はどんな人?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
和歌山城。(写真:イメージマート)

 過日、2026年の大河ドラマが豊臣秀吉・羽柴秀長兄弟を主人公とする、「豊臣兄弟」になることが報道された。秀吉は有名な人物であるが、弟の秀長はあまり知られていない人物なので、紹介することにしよう。

 天文9年(1540)、秀長は秀吉の3歳年下の弟として誕生した。成長して小一郎と称され、のちに長秀と名乗ったが、さらに秀長と改名した。

 秀長は織田信長に仕えていた秀吉に従い、中国計略に出陣するなどし、大いに軍功を挙げた。「天空の城」として知られる竹田城(兵庫県朝来市)主になったのも、この頃である。

 天正10年(1582)6月の本能寺の変で信長が横死すると、秀吉は信長を自害に追い込んだ明智光秀を討伐し、信長の後継者として、天下人への名乗りを挙げた。

 その後、秀吉は織田信孝、柴田勝家らのライバルを蹴散らし、徳川家康、織田信雄を臣従させた。天正13年(1585)に関白になると、同じ年に秀長も、岡山(和歌山市)に居城を築き、紀伊・和泉両国に64万石を与えられたのである。

 秀長は見事なまでに家臣団を統制し、領民に思いやりある政治を行ったといわれている。以後も秀長は、秀吉の命に従って天正13年(1585)の四国征伐に出陣し、勝利に貢献した。その功により大和44万石をさらに加増され、郡山城(奈良県大和郡山市)に本拠を移したのである。

 秀長が大出世を遂げた理由は、秀吉の弟だったからという事情もあろう。とはいえ、頼りになる親族が少なかった秀吉が、弟の秀長に全幅の信頼を寄せていたことは明白であろう。それゆえ、歴史小説では秀吉の「ナンバー2」とまで称された。

 天正14年(1586)、九州では薩摩の島津氏が席巻し、対立していた豊後大友氏が窮地に陥ってた。困った大友宗麟は、秀吉に支援を依頼すべく上洛した。その際、秀吉は「内々のことは千利休に相談し、公儀のことは秀長に相談するがよい」と述べたという。

 秀長は豊臣政権の中枢にあって、大名統制の一環を担っていたと考えてよいだろう。こうした役割を秀吉が秀長に与えたのは、単に弟だからという理由に止まらないで、その有能さを買われていたからだろう。

 秀吉は性格が非常に苛烈で、諸大名に厳しい態度で臨むことがあった。一方の秀長は性格が柔和で、温厚篤実だったといわれている。まさしく「剛」の秀吉と「柔」の秀長が両輪となって、豊臣政権をけん引したのである。秀長は、秀吉にとって必要不可欠な人材だった。

 秀長は秀吉を補佐して豊臣政権を支えたが、天正19年(1591)に52歳で病没した。あまりに早い死だった。「もし秀長が長生きしていれば、豊臣政権の行く末は違っていたはず」という人もいるが、それは仮定の話であって、実際にどうなったのかは誰にもわからないことである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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