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大坂の陣が勃発したとき、織田有楽斎の子・頼長はなぜ豊臣方に味方したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大坂城。(写真:イメージマート)

 サントリー美術館では、3月24日(日)まで「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」が催されている。有楽斎の子・頼長は大坂の陣が勃発すると、豊臣方に与したが、どういう事情があったのか考えることにしよう。

 豊臣秀頼の家臣の織田有楽斎の子には、頼長なる男子がいた。もともと頼長は、父の有楽斎とともに秀頼に仕える家臣だったが、後述する猪熊事件に巻き込まれ、人生が暗転した。以下、事件の概要を次に説明しておこう。

 慶長12年(1607)2月、左少将の猪熊教利が官女と密通し、勅勘(勅命による勘当)を蒙って出奔する事件があった。これが、猪熊事件の発端である。

 2年後の慶長14年(1609)7月、次は参議の烏丸光広ら若い7人の公家が、典侍広橋氏ら女官5人と密通していたことが発覚した。芋づる式に破廉恥な事件が露見したので、世間は大騒ぎになった。

 後陽成天皇は事件を知ると激怒し、幕府に彼らを極刑に処すべきとの意向を伝達した。ところが、徳川家康は捕らえた教利らを斬罪に処したが、女官を伊豆新島に、公家衆五人を蝦夷などに配流するなどし、寛大な措置で事件を終結させた。猪熊事件は、家康が朝廷に対して、政治的な介入を行うきっかけになったといわれている。

 猪熊事件には頼長も関与しており、事件の発覚後に教利が九州に逃亡した際、手助けをしたという。そのため頼長は秀頼の勘気を蒙り、豊臣家を追放されて牢人になったといわれている。牢人になった頼長は、京都五条あたりに住んでいたと伝わるが、その後の動きは不明である(『大坂陣山口休庵咄』)。

 秀頼の求めに応じて、大坂城に入城した頼長は、雑兵3万人を率いていたと記されている。頼長が豊臣方へ出戻った理由は、豊臣方に大名が誰ひとりとして味方しなかったので、味方になるよう要請されたのだろう。

 豊臣方としては、背に腹は代えられないという事情があった。とはいえ、頼長が3万もの雑兵を率いていたというのは、誇張が過ぎるだろう。

 豊臣方に集まった兵は、多くの文献に雑兵と記されている。雑兵と書かれているのは、徳川方から見れば、「牢人なんて大したことがない」という気持ちが反映されたと考えられる。後世の編纂物には、名のある牢人が数千、数万の兵を率いたように書いているが、それは疑わしく、誇張があるといわざるを得ない。

 ちなみに、豊臣家譜代の家臣についても、雑兵が加わっていたという記述があるので、事情は同じだったと考えられる。豊臣家の家臣が率いた将兵は、もともとの兵と雇用した牢人との混成部隊だったのだろう。いずれにしても、豊臣方には徳川方のように正規の将兵が少なかったので、牢人を雇用して賄う必要があったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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