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子だくさんだった3人の武将。その裏事情を探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 我が国の昨年の出生率が史上最低を更新し、少子高齢化の流れには、まったく歯止めが掛からない。ところで、過去には正室以外に側室を持つことが許された時代もあり、武将は多くの子に恵まれた。そのうち3人を選んで紹介することにしよう。

◎源為義(1096~1156)

 為義は保元の乱(保元元年/1156)で敗れ、子の義朝によって処刑された人物である。為義には、少なくとも7人以上の妻がいたとされ、その間に男子だけでも20人の子がいた。側室は血筋が伝わっている女性もいるが、その多くは不明であり、中には江口の遊女と伝わる女性もいる。

 子がたくさんいることは、後継者に悩むことはないのだが、かえって面倒なことがあったのも事実である。為義は嫡男の義朝を嫌い、次男の義賢をかわいがっていた。このままではまずいと考えた義朝は、子の義平に義賢を討たせた。このように、子だくさんは、家督継承の障害にもなったのである。

◎北条氏康(1515~1571)

 氏康は氏綱の子で、関東の覇者となった人物である。氏康には正室の瑞渓院(今川氏親娘)のほか、側室として遠山康光室の姉妹、松田殿(松田憲秀娘)を迎えていた。その間には、6人の息子、7人の娘が誕生したが、ほかに4人もの養子を受け入れていた。

 そこには理由があり、氏康は氏邦を藤田康邦の養子、三郎(のちの景虎)を上杉謙信の養子として、それぞれ送り込んだ。また、氏康の娘は、今川氏真、武田勝頼の室として迎えられた。こうして氏康は婚姻関係を通して、有力な大名と同盟関係を結んだのである。それでも数が足りないので、養子を迎えたのだろう。

◎織田信長(1534~1582)

 天下人の信長には、正室の帰蝶(濃姫)のほか、11人もの側室がいた。その間には、11人の息子、9人の娘がおり、ほかに5人の養女を迎えていた。信長も子を政治の道具として使っていた。次男の信雄は北畠家に、三男の信孝は神戸家にそれぞれ養子として送り込んだが、実質的な家の乗っ取りである。

 四男の秀勝を羽柴(豊臣)秀吉の養子にしたのは、有力家臣の秀吉との関係を強めるためだろう。それは、松平信康(徳川家康の嫡男)の妻として送り込んだ、娘の徳姫も同じことだった。徳姫が信長に送った書状によって、信康の謀反が明らかになったというが、不可解な点が多いとされている。

◎まとめ

 武将が子だくさんになるには、正室だけでなく、側室を迎える必要があった。また、誕生した子は家督継承だけでなく、政治同盟を結ぶためのコマとして活用されたのである。なお、ここで挙げた子供の数は、諸説あることを申し添えておく。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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