広島や大阪のソウル・フードのお好み焼きのルーツは、あの有名な茶人の千利休にあった
旧暦の2月28日は、千利休の命日なので、各地で利休を偲ぶ茶会が催された。ところで、広島や大阪のソウル・フードのお好み焼きは、利休にルーツがあったといわれている。その点について、考えることにしよう。
お好み焼きといえば、広島や大阪の人にとってソウル・フードである。いや、もはや日本人のソウル・フードと言っても過言ではないだろう。ところで、すっかり全国区となったお好み焼きであるが、いかなるルーツを持つ食べ物なのか考えてみよう。
周知のとおり、お好み焼きは地域によって、製法が異なる。広島では小麦粉を薄く敷いて、その上にやきそばや大量のキャベツを載せる。いわゆる広島焼きである。
ところが、大阪では小麦粉の生地の中にキャベツを練りこんで焼く(大阪焼き)。いずれが好みかは、人によって異なるかもしれない。ここでルーツをたどるのは、後者のほうである。
意外かもしれないが、お好み焼きのルーツをたどると、茶人の千利休にさかのぼる。利休とお好み焼きとは、あまりに想像もつかない組み合わせである。
茶会の席では、茶菓子が出される。その一つとして、麩の焼き(麩焼きともいう)がある。この麩の焼きこそが、お好み焼きのルーツといわれているのだ。
では、麩の焼きとは、どのようなお菓子なのか。麩の焼きは水で小麦粉を溶いて薄く焼き、具として芥子の実などを入れた。焼きあがると砂糖や山椒味噌を塗り、巻物状に形を整えて提供される。
もともとは巻物が仏典のように見えたので、仏事用の菓子だった。やがて、利休の茶会記『利休百会記』にもあらわれるように、茶菓子として用いられた。これが、お好み焼きの原型になったという。
江戸時代の寛永年間になると、山椒味噌などに代わって、甘い餡を巻くようになった。これが助惣焼で、江戸麹町三丁目の橘屋佐兵衛が開発し、販売した。
なお、助惣焼は、どら焼きのルーツであるともいわれている。しかし、江戸末期になると、助惣焼は衰退したといわれている。衰退した理由は、ほかにもっとおいしい菓子が登場したからだろう。
江戸時代末期以降、麩の焼きは「もんじゃ焼」、「どんどん焼」と進化し、やがて大阪焼き(関西焼きとも)、広島焼きと呼ばれるお好み焼きに発展した。麩の焼きそのものというよりも、製法が受け継がれたというのが適切かもしれない。
今やお好み焼きは庶民の食べ物として、日本人に愛されることになった。当初は、豚などの安い食材が具として用いられたが、今は高価な海産物も具になることがある。