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あまりにケチすぎて、情けなく感じてしまう戦国武将3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成。(提供:アフロ)

 我が国の株価は急上昇しているが、相変わらず庶民生活は厳しい。かくいう私も、少しでも安いものを探して奔走する日々である。戦国時代も戦いに明け暮れるなかで、出費を抑えようと倹約した。今回は、そのうち3人の戦国武将を紹介することにしよう。

◎石田三成(1560~1600)

 三成は「奉公人は主君から与えられたものを使い過ぎるのはよくない。とはいえ、残すのは盗人である。また、使い過ぎて借金をするのは愚人である」と述べたという(『老人雑話』)。

 それゆえか、居城の佐和山城(滋賀県彦根市)は非常に粗末で、壁はあら壁、居室は板張りであったと伝わる。ムダ金は、決して使わなかったようだ。

 三成はお金を適切に使う重要性を説いたのだが、裏付けとなる確かな史料はない。一方で三成は、有能な人材を招聘することに金を惜しまなかったという。

 三成は4万石しか領していないのに、島左近(清興)を1万5千石で召し抱え、豊臣秀吉が感嘆したとの逸話がある(『常山紀談』)。しかし、この話も実は誤りとされている。

◎前田利家(1539~99)

 慶長元年(1596)の慶長の大地震後、前田家の京都屋敷が倒壊したので、利家は子の利政に屋敷を新築させた。しかし、あまりに豪華だったので、「金の使い過ぎだ」と怒ったという逸話が残っている。

 利家が愛用していたという算盤が残っているが、利家は家のお金の管理をすべて自分で行い、愛用の算盤で勘定していたといわれている。まさしく、ケチたる所以である。

 天正12年(1584)に利家が佐々成政と戦った際、妻の「まつ」は備蓄していた金・銀を軍費に充てるよう、利家に進言したという逸話が残っている。

 利家はドケチだったので、軍費を惜しんだだけでなく、人を召し抱えることを控えるなどしていた。それゆえ前田家には、十二分な金・銀が蓄えられていたのだ。

◎佐久間信盛(?~1582)

 天正8年(1580)、織田信長は大坂本願寺攻めに失敗した信盛に折檻状を送り、高野山(和歌山県高野町)へ追放した。

 追放した理由で重要なのは、「以前から家臣に知行を加増したり、あるいは与力を付けたり、新しく家臣を召し抱えたりしていれば、大坂本願寺攻めに失敗することはなかっただろう。信盛がケチくさく、お金を溜め込むことばかり考えるから、今回は天下の面目を失ってしまったのだ」という一節だろう。

 むろん、信長が言うことには根拠があった。家臣は主人のために懸命に戦い(奉公)、主人は軍功を挙げた家臣のために加増するのが当然のことだった(御恩)。

 「御恩と奉公」の関係こそが、主従関係の基本である。しかし、信盛は自分の金を溜めることばかり考え、おまけに大坂本願寺攻めに失敗したので、信長は激怒したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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