【光る君へ】京都市中の警察・裁判を担当した検非違使・放免とは
大河ドラマ「光る君へ」では、盗賊の直秀ら一党が捕らえられ、その身柄が検非違使に引き渡されていた。検非違使やその配下の放免は、京都市中の警察・裁判を担当したが、どのような存在だったのか、もう少し詳しく考えることにしよう。
弘仁元年(810)に薬子の変が勃発し、京都市中の治安維持を確保するため、左・右衛門府内に検非違使庁が設置された。その主たる職務は、京都市中で発生した殺人、強盗、謀反人などの逮捕である。
その後、検非違使庁は訴訟や裁判を行うようになり、弾正台、刑部省、京職などの職務を吸収したのである。検非違使は京都市中だけではなく、諸国や荘園に配置されることもあった。
検非違使庁の長官は別当と称され、参議・中納言で衛門督を兼ねる者が任じられた。配置された職員(別当を除く)は、上から佐、尉、志、府生、火長である。
それぞれの職員については、尉は法に詳しい明法道の家柄の者(坂上・中原の両家)が担当した。また、犯人を逮捕する必要性から、武力に優れた者が採用されたのである。
火長は看督長、案主、官人従者で構成され、火長の下には下部(放免ともいう)という下輩がいた。犯人を逮捕する実行部隊が看督長であり、放免だった。放免は前科者が採用されており、かつては獄舎に繋がれていた罪人だったが、のちに放免されたのでその名が用いられた。
放免は口髭や顎髭を生やすなど、独特の容姿をしていた。元犯罪者だったので、その人脈を活用して捜査に従事させたと考えられている。しかし、せっかく放免に採用されても、再び罪を犯す者もいたという。ドラマの中で、直秀ら盗賊を連行し、獄舎につなげたのは放免であろう。
しかし、平安時代末期に院政が行われるようになると、北面の武士が検非違使の役割を担うようになった。12世紀後半に鎌倉幕府が成立すると、検非違使庁の職務は、承久の乱後に設置された六波羅探題に少しずつ吸収されていった。
14世紀初頭に室町幕府が成立すると、侍所が置かれ、検非違使庁の権限などが吸収された。犯人の逮捕、裁判などは、侍所の職務になったのである。こうして検非違使庁の役割や権限は侍所に奪われ、14世紀の終わり頃には消滅したと考えられている。