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【光る君へ】泣く子も黙る死罪に次ぐ流罪とは、どういうシステムで刑が実行されたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、盗賊の直秀が捕らえられ、流罪で済むかと思ったら殺害された。流罪は死罪に次ぐ重い刑罰であるが、どういうシステムで刑が実行されたのか考えてみよう。

 流罪とは、律に規定された罪名である。罪人を辺境の地に追いやり、二度ともとの居住地に戻さない刑罰だった。流される場所は、決して離島だけではなかった。

 流人がもとに住んでいた場所に戻れないというのは、被害者が住んでいる可能性を考慮し、未然にトラブルを避けたものであろう。これは、一種の終身刑ともいえるもので、恩赦などがなければ、配所(流された場所)で生涯を終えることになる。

 流罪はその罪に応じて、近流、中流、遠流の3つに分かれていた。ところが、『大宝律』が制定された時点では、まだ具体的な距離や場所(国名)までは記されていない。

 『名例律疏文』によると、近流の国は京都を起点として40日程度の距離としている。40日程度といえば、相当な長い距離になるが、中国の流罪のシステムから機械的に算出されたものが基準になっていたという。

 近流、中流、遠流の3つの分類を三流というが、それは律令の本家の中国からの強い影響を受けていた。

 つまり、隋(6世紀末期~7世紀初頭)では「流」を千里、2千里、3千里に分けており、唐(7世紀初頭から10世紀初頭)では2千里、2千5百里、3千里になっていた。唐のほうが、近流、中流に該当する距離が隋より長くなっている。

 なお、ここでいう1里とは、一般的に知られている約3.9キロメートルではなく、約5百メートルという古い基準だった。したがって、千里と言えば、約5百キロメートルになる。

 現在で言えば、おおむね東京から京都までの距離になろう。さすがに中国は広大な領土を誇ったことになる。当時、日本でも京都を起点にすれば、関東ですら辺境の地であったが、九州、東北方面はさらに遠い地の果てであった。

 流罪では、単に罪人が辺境の地に流されたに止まらず、流刑地において労役を科せられていた。また加役流といい、罪が大きければ、3年間(通常よりプラス2年間)の労役を科せられるケースもあった。つまり、現地でも労働の負担があり、流罪は労働刑という側面も持っていたのである。

 流罪が適用されると、家族も同罪として配所に行かなくてはならなかった。それは縁座(連座とも)といって、連帯責任を負わされたのである。流罪は、一種の家族刑だったといわれる所以である。

 男性が罪を犯して流罪になった場合、妻と離婚して1人で配所に向かうことすら叶わなかったのだ。現在ならば、夫婦のどちらかが犯罪を犯した場合、離婚することは珍しくないが、当時は許されなかったのだ。縁座は前近代において、広く適用されていた。

 また、官人の場合は官職を取り上げられ、僧侶は還俗(僧籍から俗人に戻ること)してから配所へと向かった。いったんは身分を失うことになり、改めてまったくの俗人として扱われたということになろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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