「和歌山」の語源には、豊臣秀吉とその弟の秀長が関係していた
2月下旬の大雪のとき、岩手県に宿泊していた和歌山県の男子大学生が雪かきを手伝ったという。こちら。なかなかできないことである。ところで、「和歌山」の語源には、豊臣秀吉とその弟の秀長が関係していたといわれているので、その辺りについて考えてみよう。
県名や県庁所在地の市の名称となっている「和歌山」。自然に恵まれており、歴史や文化も豊かなことで知られている。「和歌山」という名称は、いつ誰によってつけられたものだろうか。
天正13年(1585)4月、秀吉は紀州攻めを圧倒的な勝利のうちで終えると、弟の秀長に紀伊国の支配を任せた。通説によると、このとき「和歌山」の名称が用いられたという。『紀伊続風土記』という史料には次のとおり、経緯が記されている(要約)。
天正13年(1585)、秀吉が根来寺(和歌山県岩出市)を滅ぼし、太田城(和歌山市)を落城に追い込み、紀州を統一して秀長に与えた。
秀長はこの地(和歌山城)に縄張りを命じ、藤堂高虎らを普請奉行にして本丸・二の丸を年内に築いた。
秀長は大和国郡山城(奈良県大和郡山市)を居城としていたが、そこは桑山重晴を城代とし、自らは天正14年(1586)から和歌山城に在城して「若山の城」と称した。
この史料によると、天正14年(1586)に至って、秀長が「若山」と称したというのである。当初の表記は「和歌山」ではなく、「若山」だったようだ。表記が異なっている点に注意すべきだろう。
この続きには、「この地(和歌山城)は吹上浜の東に峙つをもって「吹上峰」と号し、また岡山の北首にあったので「岡山」の名があった」という興味深い記述がある。
もとは違う地名(「吹上峰」「岡山」)であったのだが、南に位置する「和歌浦」の「和歌」の部分を採用して、当初は「若山」と称したらしい。
ところが、『武徳編年集成』は、天正13年(1585)に秀長が「岡山」の地に城を築き、のちに「和歌山」の城と名付けたと記す。これ以外にも諸説があり、『畠山記』によると、すでに15世紀半ば頃から「和歌山」の地名が見えている。
天正13年(1585)に推定される7月2日付の秀吉の書状によると(「三好文書」)、「紀州和歌山に弟の秀長を配置した」と記されている。いずれにしても、この頃に和歌山の名称が用いられたのは確かなようである。当時、読み方の音さえあっていれば、漢字の表記はルーズでもあった。