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織田信長には徹底的に逆らったが、豊臣秀吉に屈した3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 大分県立美術館で「畠山記念館名品展」が開催され、織田信長が所持していた茶道具も展示されているという。こちら。かつて織田信長に逆らったものの、その死後、豊臣秀吉に屈した武将がいた。そのうち3人の武将を取り上げて、解説することにしよう。

◎上杉景勝(1556~1623)

 天正6年(1578)に上杉謙信が亡くなると、景勝は同じ養子の景虎と家督を争い、最終的に勝利した(御館の乱)。その3年後、新発田重家が織田信長に通じて離反し、信長は柴田勝家に景勝の討伐を命じた。

 しかし、天正10年(1582)6月の本能寺の変で信長が横死し、配下の羽柴(豊臣)秀吉が事実上の後継者となった。これが一つの転機となる。

 景勝は信長とは対立していたが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、秀吉に味方した。それは、翌年の小牧・長久手の戦いでも同じだった。

 天正14年(1586)、景勝は上洛して秀吉と面会すると、人質を差し出して臣従した。翌年、景勝は重家を討伐し、越後の再統一を実現したのである。

◎長宗我部元親(1539~1599)

 長宗我部元親は四国統一を目論み、出兵を繰り返した。信長とは良好な関係を築き、四国を統一したときには、すべての領有を許可されていた。

 しかし、天正8年(1580)、突如として信長は前言を翻し、元親に土佐一国と阿波南部の領有しか認めないと言い出した。その2年後、信長は四国征伐を決意した。

 ところが、信長が本能寺の変で急死し、四国征伐は中止となった。信長の死後、元親は秀吉に従うことがなかった。その後も敵対行動をしたのである。

 天正13年(1585)、秀吉は元親に伊予、讃岐を返上するよう命じたが拒否されたので、四国征伐を行った。その結果、秀吉は圧倒的な勝利を収め、元親は秀吉に臣従を誓ったのである。

◎足利義昭(1537~1597)

 足利義昭は信長とともに入京し、室町幕府を再興したので、当初の関係は良好だった。とはいえ、2人の政治路線は若干違っていたようである。

 天正元年(1573)を境にして両者は決裂し、義昭は毛利輝元らを頼りにして信長包囲網を形成したが、信長は本能寺の変で横死した。信長の死後、義昭は勝家と結託するが、勝家は秀吉に敗れた。

 天正13年(1585)に秀吉が関白に就任すると、義昭は秀吉との関係改善に動いた。翌年、九州征伐が勃発すると、義昭は秀吉と島津氏の和睦を斡旋しようとした。

 天正15年(1587)、義昭は大坂で秀吉に面会し、臣従を誓った。その翌年、義昭は征夷大将軍職を返上し、出家して昌山道休と号したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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