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さすがの織田信長も激昂した。なぜ信長は2人の武将に絶縁状を突き付けたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 東京大史料編纂所の村井祐樹准教授と兵庫県立歴史博物館の調査により、羽柴(豊臣)秀吉に宛てた34通の書状が発見されたという。こちら。秀吉と織田信長の関係性を窺える史料もあるとのこと。信長はときに激昂し、書状で激しく相手を罵倒することもあったので、罵られた2人の武将を紹介することにしよう。

◎足利義昭(1537~1597)

 永禄11年(1568)、信長は足利義昭を推戴して入洛し、室町幕府の再興に貢献した。義昭も念願の征夷大将軍に就任し、大いに喜んでいた。

 一説によると、信長は義昭を利用しただけで、最初から室町幕府を打倒するつもりだったというが、それは誤りである。信長は幕府の再興に尽力し、朝廷への奉仕も怠らなかった。

 ところが、義昭は将軍になったにもかかわらず、朝廷への奉仕を怠った。あろうことか、諸大名に書状を送り、自分の味方になってほしいと要請するありさまだった。

 この様子に信長は激怒した。信長が室町幕府の再興を支援したのは、天下つまり畿内の政治秩序の回復にあったからだ。義昭は、見事に信長の期待を裏切った。

 元亀3年(1572)9月、信長は義昭に「異見十七ヵ条」を叩きつけた。これは、信長から義昭への絶縁状でもあった。「異見十七ヵ条」には、義昭の失態や職務怠慢ぶりを17ヵ条にわたって列挙している。

 結局、義昭は信長に対して挙兵したが、それは失敗に終わった。その後、2人は約10年にわたり戦い、信長が本能寺の変で横死するまで続いたのである。

◎佐久間信盛(1528~1582)

 佐久間信盛は織田家の家臣で、信長から重用されていた。元亀元年(1570)、信長は大坂本願寺との約10年にわたる戦いに突入した。先に戦いを仕掛けたのは、大坂本願寺だった。

 信長は配下の塙(原田)直政に大坂本願寺への攻撃を命じるが、天正4年(1576)に戦死した。直政の代わりに抜擢されたのが、ほかならぬ信盛だったのである。

 信盛は信長の命を受けて戦いに挑んだが、期待に応えることはできなかった。結局、戦いは天正8年(1580)に終結したが、それは正親町天皇の仲介により、両者が和睦したからだった。こうして約10年にわたる戦いは終わったものの、信長は信盛の不甲斐なさを決して許そうとはしなかった。

 同年8月、信長は信盛に19ヵ条にわたる折檻状を叩きつけ、子の信栄ともども高野山(和歌山県高野町)に追放した。そこには、信盛の戦略上の不備や失態が長文にわたり書かれていた。こうして信盛は織田家中から追放され、2年後に紀州で病没したのである。

◎まとめ

 信長が絶縁状を2人に叩きつけたのには、何らかの理由があったと考えられる。信長は2人がいかにダメだったのかを世間に広め、追放することに賛意を示してほしいと考えたからだろう。

 いかに信長が権力者とはいえ、格別な理由もないのに絶縁するのは好ましくなかった。特に、上位に位置する義昭に対しては、なおさらだったに違いない。信長は2人の失態を世間に広めることで、自身の正当性を担保しようとしたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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