桶狭間の戦いで今川義元の横死後、今川氏真を見限った3人の戦国武将
静岡県は「しずおか遺産」として、「今川一族」と「日本平の眺望」の2件を認定した。こちら。今川氏は静岡を代表する戦国大名であるが、桶狭間の戦いで今川義元の横死後、氏真の代になって滅亡した。そこで、氏真を見限った3人の戦国武将を取り上げることにしよう。
永禄3年(1560)、今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗れ横死した。義元の死後、子の氏真があとを継いだが、重臣や国人が次々と離反し、徐々に衰退していった。中でも同盟関係にあった武将の裏切りは決定的で、ついに滅亡したのである。その代表的な3人を紹介することにしよう。
◎北条氏康(1515~1571)
氏真の妻は、北条氏康の娘の早川殿だった。永禄11年(1568)、武田信玄が今川氏の領国駿河に侵攻すると、氏康は氏真を支援すべく兵を送り込んだ。
しかし、武田軍の猛攻を防ぎきれず、氏真は掛川城(静岡県掛川市)に逃れた。翌年、氏真は掛川城を開城し降伏し、今川氏の名跡は氏康の子・国王丸(のちの氏直)に引き継がれた。
氏真は氏康を頼りにしていたであろうが、その後、復権することはなく、駿河国は武田氏の支配下に収まった。元亀2年(1571)に氏康が亡くなると、甲相同盟(武田氏と北条氏の同盟)も結ばれ、氏真の復活する可能性はゼロになったのである。
◎武田信玄(1521~1573)
桶狭間の戦い後、信玄は今川氏との同盟をすぐに破棄しなかったが、織田氏との連携を模索し、この勝頼の妻として信長の養女を迎えた。
これにより、武田氏と今川氏との関係が微妙になった。永禄10年(1567)、甲相駿三国同盟(武田、北条、今川の同盟)が破綻し、信玄は今川氏との戦いを決意した。
翌年、信玄は今川領の駿河国に侵攻すると、即座に制圧した。その後、信玄は上杉氏や北条氏との関係改善に努め、氏真を孤立させた。こうして永禄12年(1568)、信玄は駿河国に再び攻め込み、自身の領国にすることに成功したのである。
◎徳川家康(1543~1616)
家康はもともと今川家に従っていたが、桶狭間の戦い後には織田信長に従った。永禄11年(1568)、武田信玄が今川氏の領国駿河に侵攻すると、家康は呼応するかのごとく遠江国に攻め込んだ。
その後、家康は信玄と手を切るが、翌年に掛川城を攻囲して氏真を降参に追い込み、遠江国を自らの領国としたのである。こうして家康は、版図の拡大に成功した。
降参した氏真は、以後は家康の庇護を受けることになった。主客が逆転した氏真は、やがて家康のもとを離れ、流浪の旅に出た。その子孫は、江戸幕府に仕えたのである。
◎まとめ
室町時代以来、今川氏は駿河、遠江の名門として君臨し続けた。また、義元は武田、北条などとは同盟を結び、盤石な体制を築き上げた。
しかし、「海道一の弓取り」といわれた義元が亡くなると、彼らは後継者の氏真を見限った。死肉に群がるハイエナのようなものだ。戦国時代には、決してお人好しはいなかったのである。