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文禄の役の際、なぜ島津氏は「日本一之遅陣」という大失態を演じてしまったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
川内大綱引の縄。(写真:アフロ)

 過日の報道によると、今月19日、国の文化審議会は鹿児島県薩摩川内市の川内大綱引について、文部科学相に重要無形民俗文化財に指定するよう答申したという。こちら。川内大綱引は島津義弘が関ヶ原合戦の際、将兵の士気を高めるためにはじめたと伝わる。

 ところで、島津氏は文禄の役に際して、「日本一之遅陣」という大失態を演じてしまったが、その理由を考えることにしよう。

 文禄元年(1592)に文禄の役が勃発すると、島津義久は病気のために出陣できず、代わりに弟の義弘と子の久保が朝鮮へ向かった。しかし、ことは簡単に進まなかった。

 島津氏は兵力や兵糧が十分でないまま船を借りて朝鮮半島に向かい、「日本一之遅陣」という大失態を演じてしまったのである。理由は、財政難だった。義弘・久保が釜山に到着したのは文禄元年(1592)5月3日のことで、もう小西行長と加藤清正が漢城を落したあとだった。

 島津氏の財政が逼迫したのには、もちろん理由があった。島津氏が豊臣政権下に置かれて以降、上洛参勤の負担、肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の築城普請など、多大な負担を課されていた。

 それにより島津家の財政事情が非常に厳しくなり、朝鮮半島に渡海するための十分な兵力と兵糧が準備できなかったのである。これに追い打ちをかけるように勃発したのが、同年6月の梅北一揆である。

 同年、島津氏の家臣・梅北国兼は、朝鮮出兵のため肥前国平戸(長崎県平戸市)に向かった。ところが、国兼は地侍らを扇動し一揆を呼びかけ、肥後国佐敷城(熊本県芦北町)を奪った。

 さらに、国兼は八代郡を攻略することで、一揆の状況を作り出そうとするが、佐敷城の留守居衆に謀殺され一揆は鎮圧された。この一揆は豊臣政権に対する島津家家臣の反発、朝鮮出兵に伴う多大な軍役への不満が要因と考えられている。

 かかる事態に対し、石田三成は安宅秀安を薩摩に送り込み、朝鮮出兵の軍役負担をさせるための方策を実行させた。

 その一つ目は、島津氏が地頭職を返上することである。二つ目は、薩摩、大隅、日向諸県郡の寺社領の三分の二を収公して、軍費に充てるという方法だった。島津家は仮に寺社が応じなければ、豊臣政権の意向を背景にして、厳しい処分を科すという態度を取った。

 一連の方策は、島津家に体制変革を促すものであった。それは、在地領主制に根差した家臣団編成を改革し、朝鮮出兵に適した常備軍を整備することだった。同時に検地を実行して、軍費調達の体制を整える必要もあった。つまり、島津氏は旧来のシステムの急速な改革を迫られていたのだ。

 とはいえ、島津氏の領国支配は、決して円滑に進んだとはいえなかった。特に、義久と義弘の2人の仲違いは、想像以上に深刻だった。このような厳しい状況のままで、島津氏は関ヶ原合戦を迎えたのである。

参考文献一覧

中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』(吉川弘文館、2008年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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