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上杉謙信が敵の武田信玄に塩を送ったという美談は怪しい。その理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上杉謙信。(提供:アフロ)

 1月14日、長野県松本市で「あめ市」が開催され、福あめやだるまなどが販売された。「あめ市」は、上杉謙信が敵の武田信玄が塩留めで困っていたので、塩を送ったという故事にちなんで開催されるようになったという。こちら

 「敵に塩を送る」という故事は、よく知られた話ではあるが、それが事実なのか検証することにしよう。

 上杉謙信と武田信玄は、川中島の戦いで名勝負を繰り広げたライバルだった。信玄の領国の甲斐は海に面しておらず、同盟国で今川氏真が支配する駿河から海産物を輸入していた。しかし、当時の今川氏は弱体化が進んでいたので、武田氏は駿河侵攻を目論んだのが、ことの発端である。

 永禄10年(1567)、信玄は北条氏康、氏真と結んでいた甲相駿三国同盟を破棄し、領土拡大を目論んだ。この事実を知った氏真は、ただちに上杉氏と和睦を結び、氏康とともに甲斐への塩留めを敢行した。

 現代社会では、高血圧になるので「塩分控えめ」が主流であるが、当時の塩は料理の味付けだけでなく、食料の保存などにも欠かすことができなかった。

 氏真が塩留めをしたので、信玄は困ってしまった。信玄の窮状を知った謙信は書状を送り、信玄に塩を送ることにした。しかも、適正な価格で販売するという、ありがたい申し出だったのである。

 この逸話の元ネタは、17世紀後半に成立した『謙信公御年譜』である。この「敵に塩を送る逸話」は、19世紀前半に成立した頼山陽の『日本外史』でも取り上げられ、瞬く間に美談として世の人に広く伝わったのである。

 『日本外史』によると、謙信は「私たちが争うのは弓矢を用いての戦いであって、生活必需品である米や塩を巡るものではない」と述べたという。こう述べた謙信は領内の商人に対して、便乗値上げせず、適正な価格で信玄の領内で販売するよう求めた。謙信が「義の人」と称される所以でもある。

 ところが、謙信が信玄に「塩を送った」ことをつぶさに調べてみると、そうした事実は見つからなかったと指摘されている。現時点において、「敵に塩を送る逸話」は史実として認めがたいという説が有力になっている。

 そもそも戦国大名は非常に打算的で、自分が得をすることしか考えていなかった傾向が強い。平気で人を裏切ったり、親子や兄弟間で殺し合うのは、その証左といえるだろう。そうした観点からいっても、考え難い話である。

 『謙信公御年譜』は上杉氏が後年になって編纂したのだから、その祖である謙信を持ち上げる傾向にあるのはいたしかたない。また、近世に至ると、諸国の大名には明君としての理想像が求められた。「敵に塩を送る逸話」は、そうした流れの中で創作されたものである可能性もあり、史実としては疑わしいといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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