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【光る君へ】円融天皇は、吉田羊さん演じる詮子と仲が悪かったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
詮子を演じる吉田羊さん。(写真:つのだよしお/アフロ)

 大河ドラマ「光る君へ」は紫式部が主人公であるが、一方で天皇や公家をめぐる話題も重要である。円融天皇は吉田羊さん演じる詮子を迎え、皇子までもうけたが、その関係は極めて険悪だった。その点について、検証を進めることにしよう。

 円融天皇が村上天皇の第五皇子として誕生したのは、天徳3年(959)である。詮子が藤原兼家の娘として誕生したのは、応和2年(962)のことである。詮子が3歳年下ということになる。

 天禄3年(972)、円融天皇が元服すると、すぐに入内したのが関白を務めた兼通(兼家の兄)の娘の媓子である。媓子は、円融天皇より12歳も年上だった。しかし、兼通は貞元2年(977)に亡くなってしまったのである。

 兼通の没後、関白になったのが頼忠であるが、そこには事情があった、かねて兼通は弟の兼家との折り合いが悪く、仲違いしていた。兼通が重病になった際、兼家は見舞いにも行かず、内裏へ行って後任にしてほしいと懇願する始末だった。これを知った兼通は最後の力を振り絞り、頼忠を後任の関白にしたのである。

 兼通が亡くなった翌年の天元元年(978)、兼家は詮子を円融天皇に入内させることに成功した。しかし、同年には、頼忠の娘の遵子も円融天皇に入内したのである。

 兼家も頼忠も娘を円融天皇に入内させたのは、政治的な立場を有利にするためだった。まさしく政略的な意味を持つ結婚だった。一方で同年、媓子が病没したのだから、皮肉な話である。

 天元3年(980)、詮子は待望の男子を産んだ。のちの一条天皇である。当時、妃が懐妊すると、生家に帰るという習わしがあった。詮子は生家で一条天皇を出産すると、ほどなく宮中に戻った。生家に帰っている日数はさまざまで、早く子を見たいという夫の心情は考慮されなかったようだ。

 『栄花物語』によると、円融天皇はわが子にしきりに会いたがったという。近侍する者が「皇子様をそっとお呼びになってはいかがでしょうか」と助言することもあったが、兼家は「何を企んでいるのかわからない者もいるので、皇子様の参内は控えるように」と述べたという。

 兼家が円融天皇に皇子を会わせなかったのは、詮子ではなく遵子が中宮になったからだろう。そこで、兼家は娘の詮子も皇子も宮中に返さなかったという。

 そのような事情があり、円融天皇は遵子を迎えようと考えた。これには、頼忠への配慮があったのかもしれないが、詮子への遠慮もあって実行できずにいた。こうして、皇子は祖父の兼家のもとで過ごすことになった。

 ドラマの中では、兼家の野望とともに、円融天皇と詮子の仲が良くない模様が描かれていたが、それが事実なのかは判然としない。いずれにしても、詮子は政局に振り回されるだけで、無力だったように思える。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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