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本能寺の変前夜、徳川家康は明智光秀から毒入りの料理を食べさせられそうになったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 今年の大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が安土城で明智光秀のもてなしを受けた場面があった。その際、光秀は織田信長の命に従って、毒入りの料理を提供していた。しかし、料理の異様な臭いに気付いた家康は、箸を付けなかった。この話は事実なのか、詳しく考えてみよう。

 信長の命により、光秀が天正10年(1582)5月に安土城で家康を饗応したのは事実である。しかし、ドラマのなかでは通説と異なり、信長が光秀に毒入りの料理を提供するよう命じていた。

 結果、家康は異様な臭いが気になり箸を付けず、信長は光秀の大失態に激怒して殴り付けた。信長は家康を殺害する計画がバレてしまったので、光秀を打擲することで誤魔化そうとしたのである。しかし、この話はドラマ上の創作に過ぎない。

 同年3月、信長は武田氏を滅ぼしたので、それまで強力なパートナーだった家康が不要になり、殺害を企てたという説がある。一方の家康も、過去に信長の命により、妻の築山殿と子の信康を泣く泣く殺したので、信長を恨んでいたという。

 しかし、どちらも明確な根拠がないので、今ではおおむね否定された説である。おそらくドラマでは、信長に家康を殺害する計画があったという説に着想を得て、創作したものと考えられる。

 17世紀に成立した『川角太閤記』によると、信長の命を受けた光秀は、周到に当日の料理を準備したと記されている。しかし、5月という気候もあって、準備した料理は腐っていた。そこに信長がもてなしの準備を確認すべく、光秀の宿所にやってきて、ことが露見したというのである。

 信長は「これでは、家康のもてなしができない」と激怒し、光秀を担当から外すと、堀秀政に饗応役を命じたという。もちろん、光秀は赤っ恥をかいたうえに、腐った料理を安土城の堀に捨てたので、腐臭が周囲に広まったというのである。

 光秀は家康のもてなしに失敗したことで、当時、備中高松城(岡山市北区)で清水宗治と対峙していた羽柴(豊臣)秀吉の応援に行くよう、信長から命じられたという。光秀は秀吉の後塵を拝することになり、非常に落胆したといわれている。

 結果として、光秀は冷遇されることになったので、信長討ちを決意したとの指摘もある。そもそも光秀が家康の饗応に失敗したという記録はたしかな史料にはなく、『川角太閤記』の創作と考えられる。したがって、光秀による家康の饗応が失敗したとの説は、否定されている。

 信長にとって、家康は武田氏滅亡後も大切なパートナーだった。関東には北条氏、越後には上杉氏、東北には諸大名が盤踞しており、まだまだ家康の力は必要だった。

 たしかな史料によって、信長と家康との確執を確認することはできない。ましてや、信長が光秀に命じて、毒入りの料理を家康に提供するなど、あり得ないと考えられる。

主要参考文献

金子拓『信長家臣明智光秀』(平凡社新書、2019年)

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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