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苛烈な性格だった織田信長が行った酷い所業3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 今年の大河ドラマ「どうする家康」は、岡田准一さんが織田信長を演じ、徳川家康をイジメ抜く姿が話題を呼んだ。以下、『信長公記』などの史料により、信長が行った3つの酷い所業について考えてみよう。

◎父の信秀の仏前に抹香を投げつける(『信長公記』より)

 天文21年(1552)に父・信秀が亡くなった際(没年は諸説あり)、焼香に訪れた信長は、長い柄の太刀と脇差しを稲穂の芯でなった縄で巻き、髪は茶筅のように巻き立て、袴も着用していない姿だったという。

 焼香のとき、仏前へ進み出た信長は抹香をぱっと摑むと、投げつけて帰った。弟の信勝(信行とも)は威儀を正した肩衣、袴を着用しており、形式どおりの作法を行ったという。その姿は、対照的だった。

 信長は「世間によく知られた大うつけ(大バカ者)と評判だった」というものがある一方、葬儀の参列者のなかに九州からの客僧が一人いて、「あの人物こそ、国を支配する人だ」と述べたという。

 九州の僧侶の言葉は、常識に捉われない信長を高く評価しているのだろうが、胡散臭さを感じてしまう。天文22年(1553)閏1月、平手政秀は信長の態度が改まらないことを悲観し、切腹することで身をもって諫言したという。

◎僧の無辺を殺害する(『信長公記』より)

 天正の頃、無辺という諸国行脚の客僧があらわれ、不思議な秘法により次々に奇跡を起こした。この噂を聞きつけた人々は、お金を払ってその功徳を授かろうとした。

 天正8年(1580)3月、信長は無辺の噂を耳にし、安土城に招いたのである。信長が無辺の生国を尋ねると、無辺は「無辺(何処でもない)」と答えた。次に、信長が「唐人(中国)か天竺人(インド)か?」と尋ねると、無辺は「修行僧」とだけ返答した。

 信長は「人間の生国は、三国(唐・天竺・日本を指し世界の意味)以外には無いはずだ。どこの生まれでも無いとは不審である」と強い疑念を示した。

 信長は「さては化け物か! それならば、炙ってみるか」と述べたので、驚いた無辺は、「出羽の羽黒山の者です」と答えた。無辺の回答を聞いた信長は、「お前は弘法大師の生まれ変わりだと言い、あっちこっちで奇跡を見せているそうじゃないか。その技を見せてみよ」と迫った。

 ところが、無辺は黙ったままだった。信長は「このような売僧(仏を売り、仏法を商う俗僧)を放置すると、人々はみだりに仏神を祈り、道理のない福を願うので大変な損失だ」と述べた。

 さらに信長は、「お前を殺すので、あとで自分の神通力とやらで蘇ってみろ」と言うと、無辺を殺害したのである。むろん、無辺が蘇ることはなかった。

◎女房衆を皆殺しにした事件(『信長公記』より)

 天正9年(1581)4月、織田信長は安土城(滋賀県近江八幡市)を出発し、琵琶湖の竹生島に参詣した。女房衆は信長が竹生島へ行くならば、帰りは家臣の羽柴(豊臣)秀吉の居城の長浜城(滋賀県長浜市)に一泊するに違いないと考えた。

 そこで、女房衆は安土城近くの桑実寺(滋賀県近江八幡市)へ出掛け、大いに楽しんだのである。女中衆は仕事を忘れ、羽を伸ばしたに違いない。

 ところが、女房衆の予想は見事に外れて、信長は日帰りで長浜から安土城に戻ってきた。これが悲劇のはじまりだった。信長は戻ってみると、女房衆がいないので激昂し、彼女らを縛り上げて連れてくるよう、桑実寺の長老に命じた。

 驚いた女房衆は、長老に信長への助命嘆願を乞うた。すると、信長はますます怒り狂い、女房衆だけでなく、長老までも殺害したのである。なぜ、そこまでしたのかは、よく理由がわからない。

◎まとめ

 以上のように、信長には大変奇行が多く、ここに挙げた3つの所業が行われた理由もよくわからない。その一方で、信長は朝廷への奉仕を怠らないなど、常識的な人物でもあった。その落差は、どう理解してよいものか謎である。

主要参考文献

池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)

金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社現代新書、2014年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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