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亡くなった徳川家康はいかにして神となり、「東照大権現」の神号を授けられたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
日光東照宮の陽明門。(写真:イメージマート)

 今年の大河ドラマ「どうする家康」の最終回では、徳川家康に「東照大権現」の神号を授けられた経緯が詳しく描かれていなかった。家康はいかにして神となったのか、検討することにしよう。

 家康死後の元和2年(1616)5月17日、増上寺(東京都港区)で葬儀が執り行われ、家康は久能山(静岡市駿河区)に葬られた。そして、家康の遺言に基づき、日光(栃木県日光市)に分霊された。現在の日光東照宮である。

 翌年2月、家康には「東照大権現」の神号、その翌月に神階の正一位が贈られた。こうして家康は、神になったのである。とはいえ、ここに至るまでには、ちょっとした騒動があった。

 家康の死後、天海は崇伝、本多正純らと神号の取り扱いについて、激しい論争を繰り広げることになった。崇伝らの主張は、家康の神号を「明神」とし、吉田神道で祀るべきという言い分だった。明神とは祭神の神徳を称えるとともに、崇敬の意を表して神名の下につけた尊称のことである。

 一方の天海は、神号を「権現」とし、山王一実神道で祀るべきであると主張して、一歩も引かなかった。権現とは、仏・菩薩が衆生を救うため、仮の姿で現れることである。

 そもそ吉田神道は神本仏迹説(仏と神の関係について、神が本地〈本来の境地〉で、仏は神の垂迹〈仮の姿〉であるとする説)を説き、神道は仏教より優れているとしていた。そのような理由があったので、多くの仏教者は権現ではなく明神号を尊重し、地方の神社に対しては大明神の授与を行っていた。

 豊臣秀吉の死後、祀られるに際しては、吉田神道の考えに従って豊国大明神の号が贈られたという経緯があった。どちらが正しいという問題ではなく、イデオロギーあるいは宗教上の信念が影響し、両者は論争になったと考えられる。二代将軍の家忠は、明神とすべきか、権現とすべきか諮問を行った。

 その際、天海が主張したのは、慶長3年(1598)8月に亡くなった秀吉が「豊国大明神」の神号を贈られた例が良くないということだった。秀吉の没後、あとを継いだ秀頼は、大坂夏の陣で敗北を喫し、豊臣家は滅亡した。つまり、明神は不吉であり、徳川家の滅亡を招きかねないと述べたのである。

 また、家康が元気だった頃、天台の山王一実神道を授けられ、死後は山王一実神道の流儀で祀ってほしいと遺言したと述べた。山王一実神道とは、天台宗が説く神道説である。比叡山延暦寺の地主神たる日吉神を山王として崇め、法華経に基礎を置いていた。その結果、家康の神号は「東照大権現」に決定したのである。

 なお、東照大権現の神号を授けたのは、後水尾天皇である。こうして家康は神となって、祀られることになったのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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