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『真田三代記』が描く、あまりに荒唐無稽な真田丸の攻防戦

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
出丸城(真田丸)跡。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、真田丸の攻防が描かれていたが、後世の編纂物である『真田三代記』には、ユニークな逸話が書かれているので紹介しておこう。

 慶長19年(1614)12月6日、徳川家康は真田丸を攻略すべく、12の部隊が次々と攻撃を加える「12段の番手」による攻撃を命じた。

 忍びの者から報告を受けた信繁は、豊臣秀頼に「12段のうち7段までは防げますが、残りの5段は自信がない」と述べ、「真田丸で子の大助ともども切腹する」と悲壮な覚悟を伝えた。このとき家康のスパイとされる小幡景憲は、進み出て作戦を進言した。

 その作戦とは、木村重成、後藤又兵衛を真田丸の加勢として黒門口から配置換えし、代わりに景憲が黒門口を守るというものだった。この作戦を聞いた信繁は同意し、黒門口の守備を景憲に任せれば安心であると述べた。ところが、景憲が進言した作戦は、実は罠だったのである。

 早速、景憲は家康に密書を書くと、配下の小野喜兵衛を使者として向わせた。ところが、喜兵衛は真田の忍びの者に捕縛され、信繁のもとに連行されたのである。密書の内容は、「明朝の未明に提灯で合図をし、黒門口を開門するので、一気に攻め込むように」というものだった。

 この作戦がうまくいけば、豊臣方は間違いなく敗北する。信繁は手なずけていた景憲の配下の者を使者に仕立て上げ、徳川方に遣わすと、うまく家康の返事を入手した。同時に信繁は景憲を監禁し、対応策を練ったのである。

 景憲の陰謀を知った信繁は、家康の攻撃に備えるべく黒門口の守備を固めた。その陣容は、大助、穴山小助らの真田勢約8千、重成、又兵衛の軍勢約8千、計1万6千余という面々だった。景憲の作戦を逆手に取る待ち伏せ作戦だった。こうして万全の態勢を整えたのであるが、むろん家康は事情を知らなかった。

 当初の約束どおり、提灯の合図により黒門口が開門されると、真田軍が待ち構えていることを知らない徳川軍は門をめがけて突撃したのである。

 徳川軍が門に突入した瞬間、待ち構えていた城兵は、一斉に鉄砲を撃ち放った。勝利を確信していた徳川方にとっては、まったく予想外の展開だったが、雨あられの銃弾から逃れようがなかった。

 一方の家康本陣でも、大混乱が生じていた。信繁の率いる軍勢が家康の本陣に攻撃を仕掛けると、慌てふためいた家康は、たった1人で逃げ出したという。信繁は1人で家康を追いかけたが、家康が農民の家に逃げ込むと、農民が家康を匿った。辛うじて家康は助かったのである。

 12月21日、家康は全軍に対して、真田丸の攻撃を命じた。家康は井楼に登り全軍の指揮を取っていたが、真田軍はその井楼をめがけて大砲を撃ち込んだ。井楼は見事に吹っ飛んだが、すでに家康は井楼の下に降りており、何とか難を逃れた。とはいえ、真田軍の優勢は明らかであった。

 その日の夕方、劣勢にあった家康は作戦の中止を全軍に命じて、本陣のある茶臼山に戻った。いったん態勢を整えるためであろう。ところが、信繁はその隙を見逃さなかったのである。

 信繁は大助とともに、かつて秀吉が作ったという抜け道を通って家康の本陣に着くと、火攻めを行ったというのである。家康と秀忠は、信繁と大助に追いかけられたが、2人はその追跡を逃れることに成功したと伝わっている。

 以上の話は、一つひとつを検証しないが、非常に荒唐無稽なもので信を置くことはできない。信繁が有利に戦いを進めながらも、あと一歩で家康を取り逃がすという構図は、信繁の活躍を引き立て、家康の無様な姿を強調するものであろう。

 信繁が一連の真田丸の戦いで活躍したのは事実であるが、以上の話は史実として認められないのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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